パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

ふたつのスピカ 〜唯ヶ浜花火大会の円環構造について〜

 

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ふたつのスピカにはいくつか重要なキーワードがありますが、その中でも最も物語の構造と深くつながっているのは”唯ヶ浜の花火大会”ではないでしょうか。

 

主人公のアスミと府中野くん、そして宇宙飛行士の幽霊であるライオンさんの生まれ故郷である唯ヶ浜では毎年夏の終わりに花火大会が行われます。そして作品の中では、この花火大会について何度も執拗に描かれています。ふたつのスピカにはその始まりの話として”2015年の打ち上げ花火”という短編がありますが、これを含めて考えると作品中で花火大会は計5回も描かれます。いわゆる一本筋のストーリー漫画として同じモチーフの話を5回も描くというのはかなり多いのではないでしょうか。逆にそれだけこの作品にとって花火大会は重要なキーワードだと言えます。

 

またこの漫画には各登場人物の回想シーンが頻繁に挿入されます。漫画の構造として主に3つの時代が描かれますが(ライオンさんの子供〜青年までの時代/ライオンさんと出会うアスミの子供時代/高校生のアスミたちの時代)現代である高校生のアスミの話を軸に、他の時代の回想シーンが随所に挿入されます。

 

そしてここがこの漫画の特別なところだと思うのですが、それら3つの時代すべてに花火大会の話が登場するのです。

 

ここで話を一旦逸らします。

 

ふたつのスピカには作品を描くにあたってその原型となったドラマがあって、それは映画監督の岩井俊二さんが作った”打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?”です(これはふたつのスピカの作者である柳沼行さんもインタビューなどでも述べられています。)

 

このドラマはもともとテレビの”ifもしもシリーズ”という企画の1作品として制作されたもので、この”ifもしもシリーズ”というのはあるストーリーに対して、あの時ああしていれば違った結末になったのではないかという問いに対し、同じ登場人物や舞台設定で2種類の物語を描く(運命の分岐点において別の選択をした2つの物語を描く)というテーマを元にドラマが制作されてます。

 

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岩井俊二監督の”打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?”でも小学生の主人公が花火は横から見ると平べったいのかという問いに対し、友達と一緒に横から見ようとするルートと、好きな女の子と下から見るルートの二つの物語が描かれます。

 

しかし実はこの”打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?”は一番初めの脚本の段階では主人公が花火をしたから見るルートの一つしか描かれていなかったそうです。これはこのドラマの制作ドキュメンタリーである”少年たちは花火を横から見たかった”という作品で詳しく語られていますが、運命の分岐後の世界を二つ描くというifもしもシリーズのテーマを、花火を横から見る友達と下から見る主人公をパラレルな2つの世界でなく、一つの世界で同時に描くことで表現できるのではないかと考えた結果だそうです。テレビのプロデューサーたちからはパラレルな世界(別の可能性)を描くのがテーマである企画に対し、一つの物語しか描かないのはルール違反だとして却下されたそうですが私はこの設定にとても衝撃を受けました。テレビのプロデューサーたちは岩井監督が自分の作りたいドラマのために方便を述べていると言っていますが私はそうは思いません。

 

例えば私とあなたが同じ世界に生きているとして、その一つ世界で同時に存在していると確認するにはどうすれば良いでしょう。携帯電話で連絡する、SNSを使って連絡を取り合うなど色々方法はあるでしょうが、それは同時に存在しているという証明にはなりません。例えば携帯電話で遠くにいる誰かと話をするとしてしても、自分の声が相手に届くにはコンマ何秒の遅れが生じます。頭の中では同時に話をしていると感じられますが、実際にはコンマ何秒か過去の相手と会話をしているわけです(テレビの中継などを思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。スタジオの司会者の質問に対し、遠く離れたところにいるレポーターは少し遅れてその質問を聞き取り回答します)。

 

つまり、誰かと誰かが同時に存在する(単一の物語として存在する)には常に同じ場所で見つめ合うしかない訳です。

 

ただ、より正確に同時存在を知覚する方法はあります。それは光を感知することです。先ほどの携帯電話の話は音の進むスピードによって生じるずれが原因でしたが、音の何倍も早い光であればより同時性に近づけるはずです。

おそらく岩井監督がドラマの初期稿で描きたかったところもここだと思います。花火を横から見るために街の端っこにある灯台に向かう友達と好きな女の子と街に残り花火を下から見る少年はその距離によって同時性を失います(つまりこの時点ですでに話が二つのパラレルな世界に分岐しています)。そしてそれら二つの世界の間に打ち上げ花火が上がります。花火は光であるため、横から花火をみる友達としたから見る主人公は花火を通して二つに分岐した世界を一つに統一することができるのです(見たことがある人はわかると思いますが、打ち上げ花火は光の後に音が聞こえます)。

 

よって、花火をしたから見た主人公はその花火を通して、灯台で花火を横から見ている友達の世界と繋がりさらには女の子の誘いを断って友達と一緒に横から花火を見たかもしれない物語の可能性を知覚するのです。

 

話をふたつのスピカに戻します。

 

この作品にも同時性について考えさせられる場面が多くあります。

例えば、アスミが宇宙学校の仲間たちと初めて唯ヶ浜の花火大会に来る話で
友人の一人であるマリカがカムパネルラの森で迷子になり(アスミたちとの同時性を失う)
そしてクローンであるマリカのそのオリジナルが見たであろう秘密のロケットを見つける場面、
マリカは”これは私の記憶じゃない”と思いながらそのロケットを懐かしく感じてしまう。
そしてオリジナルのマリカとクローンのマリカが見つめ合うシーンが描かれます。

つまりこの時、アスミ達の高校生の時代を現代とするなら、過去と現代が同時に存在していることになります。

 

過去と現代の両方にほぼ変わらない状態で存在する秘密のロケットを媒介として
このようなシーンが発生しているのです。

 

そのあとマリカはアスミに発見されますが
そこでアスミと一緒に花火を見るマリカと同時に過去にオリジナルのマリカが見た花火のシーンも描かれます。


これもある意味ではふたりのマリカが同時に存在していることになるのではないでしょうか。

 

毎年同じように打ち上げられる花火はすでにその時代性(唯一性)を失い
現代、過去、未来のすべてに存在する(偏在する)ものとなっており
その花火の光を下で見る登場人物たちもその花火を感知している瞬間は同時に存在しているように感じることができます。

 

これは漫画だから実現可能な事なのかもしれません。
現実世界では毎年花火のプログラムは変わってゆくわけですし、例えば秘密のロケットがあったとしても
日々劣化して昔と同じ姿で残っているとは思えません。
しかし、漫画ではそのようなデティールは省かれるわけで、あたかも過去も未来も同じように花火もロケットも存在することができます。
(劣化をちゃんと書くこともできますが、物語上必要ないのであれば省くことも選択できます)

 

作者が意図したことではないのかもしれませんがこういった漫画的機能によって
ふたつのスピカの花火大会は現在/過去/未来との同時性を獲得し得ているように感じます。

 

つまり、唯ヶ浜花火大会の花火の下には現在(高校生のアスミ達)、過去(ライオンさん/鈴成先生/オリジナルのマリカ)、未来(これから生まれてくる子供たち)
そのすべてが同時に存在しており、そして一緒に同じ花火を見ているような錯覚を覚えるのです。

 

過去が現代にとって決して触れることができない場所にあるように
現代も過去にとっては決して触れられない場所にある。

 

現実世界ではそういった完全に同時性を失ったものを見たとき
その非接触性からある種の切なさを感じてしまいます。

 

ノスタルジーは多くは後ろ向きな/女々しいような考え方としてとらえられがちですが
ふたつのスピカを読むたびに私はそれは違うと強く思います。

 

打ち上げ花火の光は現在/過去/未来に向けて放射され
アスミ達が花火を見上げるたび、かつてあったライオンさんたちの物語と再びつながり
そして未来起こるであろう誰かの物語ともつながる。

 

場所や時間によって隔てられてしまった同時性を花火という光によって、時間も場所も超えて再び獲得できる事。同じ光を見ている誰かの気配を感じること、光の下にある誰かの物語を無意識的にでも感知する瞬間。
この切なさは決して後ろ向きなものではないと私は思いたいのです。