パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

噛みながら

最近いろんなところでサブスクとCDの比較をする記事や文章を事を見かけるようになった。

ゼロ年代で、高校生で、田舎にいて、サブスクもなくてお金もない。そうなるとひとつのCDを擦り切れる(CDなので傷つく?)まで聞いたみたいな話。

 

確かに自分も田舎で高校生をやっていたので分かる気持ちもあるけど、

それは時代が違うだけで今の高校生には今のやり方があるだろうと思う。

 

ただ、自分のこととして一つだけ言えるのは2000年後半頃の田舎はYoutubeより雑誌の情報の方が質が高かった。(ロッキングオンとかはおんなじアーティストの巻頭インタビューばっかでお金の匂いしかしないのでクソだと思っていたが)

というかYoutubeはまだ犯罪扱いだったはずなのでMVも少ないし、今でいう名盤を紹介するような動画もなかったと思う。

 

Studio Voiceが休刊する前に自分はギリギリ間に合っていて

その中でまだ少年だったころに細野晴臣特集を買えた(読めた)ことが本当に大きかったと思う。

 

あの号は未だに手元にある。

昨今の細野晴臣再々評価で出ている本と違い、

かなりマニアックにはっぴいえんどからソロ、YMO期だけでなく

70年代のティンパン期のバックバンドを務めた盤の紹介や80年代のアイドル歌謡曲、パラダイスビュー、銀河鉄道の夜といった映画方面、著作についても情報が溢れていた。

 

なにより、その特集の中でDate Course Pentagon Royal Gardenフィッシュマンズを知ることができた。(DCPRGはたしかテクノドンのポリリズムについての解説でちらっと紹介されていた。今思うとぶっ飛んでいる。。)

 

そしてその号の巻末広告に衿沢世衣子のシンプルノットローファーがあって

絵柄だけで漫画を買ったりもした。

 

雑誌を読むということは取捨選択されていない情報が入ってくることであって(もちろん雑誌のカラーと全く違うものはのらないと思うが、少なくとも自分の領域にないものを知ることができる)そういうところはYoutubeやサブスクのおすすめ機能にない良さだったと思う。

 

自分としてもそこで知れた情報さえあればあとは簡単で、

シンプルノットローファーからファミリーアフェアに飛んで、よしもとよしともにたどり着いて、そこから岡崎京子等の90年代の漫画につながっていく。

青い車を読めば、小沢健二にもサニーデイにもいける(当時にはもう両方知っていたので逆にこういう引用があるのかと感動した)

 

細野晴臣が音楽を担当したメゾンドヒミコからは犬童一心から市川準へ飛べたし、

オダギリジョーから黒沢清へたどり着いた。

そういう、世界樹のように文化が枝分かれしていく感覚は今はどこで得られるのだろう。

 

 

 

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よしもとよしともが漫画化した噛みながらから引用

 

衿沢世衣子が表紙を担当した長嶋有の"僕は落ち着きがない"はのちに

長嶋有漫画化計画で本当に漫画になった。そこにのっているスピンオフの"噛みながら"はよしもとよしともの漫画の中で一番の傑作だと思う。(というか自分の漫画のオールタイムベストの一つに必ず入ると思う)

 

漫画や映画や音楽が遍在できる"可能性がある”ということを、この漫画を読むと少しだけ信じることができる。

 

死んでしまった頼子は誰かの中で死ななかった頼子として遍在し、僕に話しかけてくれる。

 

音楽が誰かの生活を豊かにしているだとか、この曲があったから生きてこられたとか

そういう甘えきった(というか音楽家を舐めきった)考えを持つ気にはなれないが、

特に音楽の遍在性については信じたい。(そうでなければ自分が音楽をやる意味はない、といっても言い過ぎではないはず)

 

先日、くるりの記念ライブに行ったのだが(ワンマンは多分10年ぶりくらい)隣の男の客が最悪でずっとくだらない会話をしているし、歌うし、酒飲むし、マスクしねーしでカスだった。(一緒に来ていた女性の方は少し申し訳なさそうにしていたので、なんか色々と察したが、、)

 

くるりのライブは25周年を記念するというやつで、結成からアルバム順に2曲ずつ演奏していた。ぶっちゃけワルツ以降にまったく思い入れはないので、隣のうざい客のこともあって前半で帰ろうかとも思ったが、社会勉強と思って本編まではいた。(さすがにアンコール前には帰ったが)

多分ファンに人気なのだろうあのHipHopっぽい曲などで盛り上がっている感じがダサくて嫌だな〜と思ったが、一つのバンドと生活や人生をともにするのもまあ根気のいることなのかも知れないのでそれはそれで良い生き方なのかも?

 

ただ、個人的にはここ最近感じている、客が音楽家を消費している感じがひしひしと伝わって来てなんだか嫌な気分になったのも確か。(石若俊のドラムは最高)

なんというか完全に生活の憂さ晴らしとしてライブにきているように見える人(その人たちの青春時代の文化的アイコンとしてあったくるりを、今は憂さ晴らしの手段として消費しているような人)が何人かいて

こんなもんかと思ったし、そういう層には今の分かりやすい紹介系Youtubeの感じが受け入れられるのも納得してしまう。

 

別に何かを簡単に見つけてしまうこと、結論付けることが悪いわけではない。

散歩中に決定的な答えがいきなり浮かぶことはままある。

 

それでも、簡単さにかまけて、苦労して探すことを馬鹿にするのも間違っていると思う。

それは単にタイミングと巡り合わせの問題で、どちらかが正解なわけがない。

だから簡単な方が良いじゃんといって、自ら馬鹿になっていきたくはない(そういう人が多くなっているのは確かだと思うが)

 

テレワークが長いので映画を見るよりラジオを聴く時間の方が長くなった。

 

ラジオも雑誌と似ていて聞く側の取捨選択が介在しづらくて面白い。

自分の知らない流行りの曲や40年代のジャズが鳴っている。(最近クロードソーンヒルを知ってそこからまたバカラックなどにハマっている)

 

こういう時に少しだけあのStudio Voiceを初めて読んだ時のような感覚が蘇って来て嬉しい。

それは当時の自分がどこかで遍在している証しのように、あの時の興奮が蘇るのが分かるからだ。あの瞬間と今が地続きなのではなく、並列に遍在している感覚こそ自分が信じたい瞬間なのだと強く思う。

 

”もしもう一人の私がいて、その私はすごく運が良くて、生きていて

そしたらきっとあんたに電話するはずだ”

と頼子は言った。