土曜日。ずっと見たかった中平卓馬のドキュメンタリー映画(カメラになった男)がyoutubeに上がっていたので見た。
ドキュメンタリーというと中平卓馬に絡まれそうだが。
逆行性記憶喪失がどういった病気かは詳しくは私にはわからないが
過去のある時期の記憶をなくしてしまった中平卓馬が過去の写真や出来事、友人の名前(特に森山大道)を何回も何回も繰り返す様を見て、記憶とはなんと不確かで儚いものだろうと思った。
私の中からこぼれ落ちていったいくつもの何もない日々を思う。
その日にあった出来事をタバコの箱に書き留め、
夜に読み返して確認する記憶と記録のすり合わせ作業のシーンで
まさに中平卓馬がカメラそのもののように感じた。
森山大道が新宿でスナップをする様を収めた番組を見たことがあるが
森山大道の場合はほとんど盗撮に近く、ノーファインダーで撮ったり、
カメラを覗くとしても対象物とのコミュニケーションは全くない(擦過ということだろう)
それに対して中平卓馬のスナップは、対象物へ話しかけ、時には地元のカメラ好きのおじさんとして記念写真を頼まれたりしていて、全く別物であることがわかって驚いた。
(もちろん、森山大道と同じように寝ている人を勝手に撮るといった場面もあったが
起きている人に対しては基本的に話しかけている)
自分の中で、森山も中平も写真へ匿名性を求めた写真家だと思っていたが
スナップのやり方を見て、その志向が明らかに別のものであると感じた。
近所の猫を撮るシーンで、猫が逃げないのは俺が写真家とわかっているからだと中平が言う。
そしてその猫の写真を見ると、中平の作家性などはなく、猫が猫として(モニュメントとして)見えるのが凄い。
牛腸茂雄の写真だと、カメラマンと被写体の関係性がよく見えるが、
中平のスナップと出来上がった写真の関係性の気薄さに驚く。
この世のどこにも中平卓馬などいないようにその写真は写真として、被写体は被写体としてそこにある(ように見える)
森山が狩人のように街から風景を盗み取るのに対し、
中平は街に擬態し、同化し、被写体は(それは人間や動物だけでなく非生物も含めて)本当は誰にも知られずに行うような非常に個人的な行為や表情を中平の前にさらけ出している。
東松照明の展覧会のタイトルにいちゃもんをつけるシーンは感動的で
周りが酔っ払いの戯言のように扱っているのに対し、中平はいたって真剣に写真を創造する(作家が意図して写真を創り出す)ということに対して反抗している。
展覧会の主催者がなんとなくつけたタイトルなのだろうが、そこにきちんとこれはどういう意味だと疑問を投げかけ、私の意見はこうで、ここが気にくわないとはっきりと意思表示するところはprovokeのころと何も変わっていないと感じた。
youtubeに上がっていた動画の元は、きちんと映画館で上映された作品なので
明らかに違法アップロードであるが、こういう貴重な動画が見れるのがyoutubeの唯一のいいところだと思う。
ジョナスメカスのリトアニアへの旅の追憶を違法アップしている人がいて、その人は消されるたびにまたアップするという活動を行なっているらしい。メカスの作品も今ではめったに見る機会がないため、違法だとしてもそういう作品を見られる環境を残しておきたいという。
確かに、レアな映画や動画ほど熱心にアップされている印象があるし、
そういう作品は基本的に知っている人も少ないので
相対的に消去されるのが遅れる印象である。
素晴らしい作品はひっそりと確かに拡散していく。
(タルベーラのベルクマスターハーモニーとか、黒沢清の学校の怪談シリーズとかもyoutubeで初めて見た)
日曜日。
近所にめちゃくちゃ良い本屋があるので、散歩がてら寄る。
ジョナスメカスの難民日記が新刊で売っていてビビったが、お金が足りず断念。
中沢新一と呉明益から台湾小説にハマっているので、台湾小説をジャケ買いする。
家で今度は森山大道のドキュメンタリーを見る。
NHKで放送された犬の記憶は自分が森山大道を知るきっかけになった番組で
初めて見た時のことを今でも覚えている。(たしか中学生の春休み)
内容に感動したとかというわけではなく、なんだかよくわからないが凄いものを見たという感覚があって、のちに大学に入って一人暮らしをするタイミングで文庫本の犬の記憶を買った。初めて読んだときはまったく理解できずに挫折したが、ジャックケルアックの路上を読んだ後に再読し、その文章からする雨の匂いや路上のタイアの擦れた匂いにいたく感動した。
子供の時に見た映像が、ずっと頭の中に残っていて
巡り巡って自分に返ってくるようなことがたまにある。
高校生の時に映画にハマり出した時に再発見し、それからなんども観る映画になった。
中平卓馬はある時期の記憶をなくしてしまったけど
スナップをすることでその消えてしまった記憶を記録として蘇らせようとしているのかもしれない。当時の自分と今の自分が同じ個体であるということは証明ができない命題であるが、同じあるものに反応し、あるものを発見する時、過去は≒で現在になるのかもしれない。