ビー・ガンの映画を観て映画欲が出てきたので、中国、台湾圏の映画を色々観ている。
エドワード・ヤンを観返していて改めてこの人は群像劇を群像劇ではない形で作品化した人なんだなと思う。初期の台北ストーリーはそれ以降の各作品に見られるテーマが散見されるものの(青年の殺人、機械の有機的な結びつき、4角関係等々)主人公のカップルにカメラは注視している。
その一年後に作られた恐怖分子からは明らかに映画としてのグレードが上がっていて驚く。
画面の構成や細かい話などは割とどの作品も似ているが、恐怖分子以降の作品はカメラは一人の人物を追うことはしない(ヤンヤン夏の想い出でさえ、家族それぞれの話が散文的に散りばめられる)。主観を持たないカメラは、街そのものを監視カメラのように(しかし監視カメラにしてはあまりにキマッていて美しい構図で)隠し撮り、バラバラの断片を集めるように編集され映画化される。
まるで街が見た夢のような映画だ。
エドワード・ヤンの映画ではあくびをするシーンが多い。恐怖分子で言えばラストの仕掛けそのものが夢の現実への侵入でもある。
パトカーのサイレンが響く街で、それをあらゆる場所であらゆる人が聞いているということ。音がつなぐ見えない関係性は、(または電話線がつなぐランダムな人間関係が)無作為に見える(実際は綿密に計算しているのだろうが)編集によって少しずつつながっていき、やがて曖昧な、結末のないまま闇へと消えていく、その不在感に惹かれる。
だれの視点でもない映画。
恐怖分子と同時代に書かれた伊藤重夫氏の踊るミシンという漫画にも似た感覚を覚える。ランダムに配置された話たちと街を飛び回る無数の見えない感情たち。
それらがいつのまにかつながったように見えて、繋がらないまま拡散してゆく。
”そんな思いが空中をとびまわってんの やだろう?”と田村は言う。
自分が好きな漫画はいわゆる漫画的な手法に収まっていないものが多い気がしている。
映画的な構図で、私小説のような話で、そのどちらでもなく漫画として成り立っているような作品。白山宣之、伊藤重夫、三好銀、豊田徹也といった人たち。
漫画的なものも好きではあるが、好きな作品を考えるとどうしてもそうした領域横断的なものに惹かれてしまう。