エリックロメール の四季の物語は結局すべてDVDで観た。
結果としては何度も観たくなる映画ばかりでDVDで買ってよかった。
とにかく恋の秋が素晴らしすぎで、興奮してしまった。
ここ数年で観た映画だと鎮西尚一のring my bellと同じくらい感動した(まったく方向性の違う映画だが)
ロメール は大まかにバカンスものと、郊外と都会という場所をうまく利用して人物の生活を描いていくものがあるが(両方のモチーフが出てくる場合もある)、
それは自然と文明の対比というだけでなくその空間の移動によって生じる時間的な(空間的な)ズレによるもどかしさも描いていると思う。
そして秋の恋ではその自然と文明の対比がほとんどの画面に遍在していた。
映画の中で象徴として取られる自然の中にできた工場の煙突は、最初の郊外へと向かう車中の風景として描かれ、郊外のぶどう園からは遠くにある風景として映る。その距離の対比によって文明から遠く離れた場所という距離感が生じると同時に、移動という行為そのものにある種の巡礼的な意味合いがおびているように思えた。
また、街中で開かれるパーティのシーンでは会場の裏側(裏庭)に誰もいない自然があって家という最小の空間にさえ文明と自然の対比が配置されている。
これは人物の配置にも置換され、主人公の幼馴染、主人公の息子の恋人、というふたつのサークル(これは交わっているようで閉じている)があり、都会側の男(哲学教師)と自然側の男(ぶどう園を持つ男)という二つの対比になっている。
そしてその閉じたサークルを登場人物たちは交わりそうで交わらずに行き来し、物語が進んでゆく。
ロメールの映画は他の作品でもとにかく人物が歩いて話が進んでいくことが多いが
この歩くことそのものが映画的な行為なのではないかと思った。
ある地点から別の地点へ移動する際に切り替わるカメラに、人物と一緒に捉えられる風景が、映画的に心の流れを作っている。
そして、その風景の中を人物たちは入れ替わり行き来をしてすれ違っていく。
ある人物が通った道を別の人物が通る。そして、同じ風景が全然別の心情として立ち現れていく。
移動を線とすると上下左右あらゆる線が残された風景のなかに時間的なズレを伴って
すれちがっていく主人公たち。
それを映画の向こう側で観れるだけでなぜこんなに幸せなきもちになるのだろう。
四季の物語を見て、ホン・サンスがロメール と比較される理由がようやくわかった気がする。
特徴的なズームや、何が起こるでもない物語を人物の空間的(時間的)移動で映画としてみせるという部分は確かに似ている。
ただ、ホン・サンスのズームはロメール と違って時空間を超えないためのズームであって、
ある種の必然性(というかこうしなければ映画が破綻してしまう)によって使われる。
(ホン・サンスの映画は基本的にパラレルワールドを行き来するものと考えているが、それは映画のカットが破られた瞬間に別の世界が立ち現れるような仕組みになっている。だからカットを割らずに人物にカメラを寄せるには不自然になるとわかっていてもズームを使うしかない)
それに対してロメール は本当に微細に(そして繊細に)ズームをしている。
なぜここでズームを使うのだろうというシーンでほんの少しだけ人物にカメラが寄る。
しかし、物語を理解してみるとそれは風景に埋没していた人物へと観るものを入れ込むような(誘うような)ズームであることがわかる。
よく見ないと気づかれないほど巧妙に自然と文明の対比を同じ画面上で両立させている中から、ズームを使うことで、場所の対比から人物の対比へと対象が切り替わる。
カメラのズーム一つで映画の裏側に潜んでいるあらゆる対比を切り替えているのだ。
最近、本屋でたまたま見つけたレベッカソルニットという人が書いたウォーウスという本を読んでいてこれがとても面白いのだが、
詩人や哲学者、音楽家と散歩(歩くこと、移動すること)の親和性を説いていて、
ロメール もまさにそういった歩くことで思考する映画を撮っていたんだなと気づくことができた。
なんとなく、バカンス映画で気軽に見れて良いなと思っていたロメール の映画だが(もちろんカットや演出はすごいと感じていたが)、いまは明らかに別の次元で捉えられるような気がしている。