パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

どこにもないところからの手紙

ウォンカーウァイを克服しようとしていくつか作品を見るが全部途中で断念。

岩井俊二を、もうきちんとした気持ちで見れないのと同じで、思春期にしか見れない映画のような感覚(それが悪いわけではない、とは思う)

 

代わりにホン・サンスをいくつか観返していた。

 

”自由が丘で”で行われている時系列のシャッフルは、シャッフルではなく並行世界のようにも取れるが、他の作品と違って前後の小話に別の時間の断片が潜んでいて、やはり同一世界の意味合いが強く感じられる。そしてラストのラスト(この言い方がこの映画では正しい)でカタルシスと思われた後に来る、本当になんでもないシーンを見た瞬間に良い映画だなと思えるから不思議だ。

 

先日サニーデイ・サービスのライブに誘われていった。ライブでサマーソルジャーを演奏していて、前日に見たホン・サンスのこともあり、何かのインタビューで曽我部恵一氏がサマーソルジャーを書いた時に、"何も起こらないけどなんとなく気分が良くて覚醒している感じ"を曲にできた、というようなニュアンスのことを言っていてとても同意したことを思い出した。

フィッシュマンズは"退屈を音楽にしたい"と言ってたが(忘れちゃうひとときを聞くとまさにその感じを受ける。素晴らしい曲)、これは近いようで少し違う気がしている。

 

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散歩をしていると、なんだかわからないけど"この道のこの感じ"とか”名前の知らない植物の匂いを過去どこかで嗅いだことがある感覚"といった微細な事柄が合わさって覚醒していくことがよくある。これは毎日同じ道を歩いていてもその都度覚醒するタイミングは違う。(特に東京に来てからはそう感じるようになった。田舎にいた時は逆にその変わらなさによってある特定のルートがその時の自分にとっての覚醒スポットになっていて、儀式のように決められたルートを辿って覚醒できるようにしていた)

 

レヴィ=ストロースが野生の思考で語っているように

現代の思考法以外のやり方で生きることは必ずしも効率が悪いわけではないと自分も思う。

朝、散歩をしていて、梢の向こうにある朝の空の感じとまだ眠くて、しかし冷たい空気で少し頭が冴えてくる感覚。そういった状況でしか感じることのできない気持ちは確かにあって、それを言葉にするのはとても難しい。

 

曽我部恵一氏も佐藤伸治氏もそういった感覚を音楽にしたのだと思う。(こう書くと、言葉にできないから音楽にしたという意味にも取られるがそうではなく、あくまで現代の言語、現代的な理論に従った証明をせずにその人の中にある"野生の思考"に従ってその感覚を表すこと。それ自体が作曲の一部である。といった意味で捉えている)

 

レヴィ=ストロースの読みすぎで少しストーリーのある本が読みたくなって柴崎友香氏の小説をいくつか読み返している。

柴崎友香の中で好きな話はいくつもあって、読み返したくなることも多いのだが

この人の小説の特性上、それがどの本に収録されているか思い出せないことが多い。

シチュエーションがあって一人称視点で独白もあるがその意味性などはほとんど取り払われていて(よく読むと話の流れはもちろんあるのだが)それによって初めて読む人、物語を読もうと意気込んでいる人には何を目的としてこの小説が書かれているのかわからないかもしれない。(そもそも書かれた目的、演出の意味などを知ることがその小説を理解すること、では決してないと思うが。最近はこういう考えの人が多いようにも思う。youtubeの考察動画とか)

しかし、そういった断片的物語が積み重なって(まさに同じ話が別の誰かで代用されて重なったりする)知らない街と知っている街が繋がって、知らない誰かと知っている誰かが自分の知らないところでつながっていく。それを俯瞰的に見れるという幸せがこの人の小説を読むたびに感じる。一見すると、些細な物語にも小さな幸せがあるといった形で捉えられかねない小説ではあるが、そういった寓話的な思考ではなくもっと覚醒に近い感覚に至るのは、物語と物語の間に時間も場所も国も超えた見えない繋がりを感じてしまうからだろう。

 

秋は自分にとって散歩の季節で

毎日覚醒する瞬間が来てとても楽しい。

 

春になるまでこんな生活が続くと良い。