最初に読書にはまったのはミステリの面白さに気づいた中学生の時だったが、
もう今ではミステリを読んでもそこまで楽しめなくなってしまった。
それは読む作品の問題ではなく、単純に自分の感覚が変わってきたからだと思っている。
本を読むということには視点を読むという一面があると思っていて、
その分が誰の主語なのか、その物語が誰の視点で書かれたものなのかという、
視点への理解がそのまま本を読むという行為につながる。
この視点(またはその視点が行う独白)に共感するのか、嫌悪するのか、全く謎に感じるのか、そういった感情が文を読むという行為を継続させる。
ただ、そういった視点はやはりあくまで虚構であって、
”かつてそこにあった”(ロラン・バルト)という写真が持つような現実性の強度はない。
(深沢七郎のように、まるで見てきたように過去の話をかける人もいるが
それすら、現実性の強度という意味では一枚の写真とは別の次元にある)
乗代雄介の未熟な同感者を読んでいて、
そういった、文を書く人が作り出した虚構の視点よりも
その文を確認至った現実の気配のようなものに今の自分は惹かれているのだろうと感じた。
ミステリはその物語の仕組みから、(叙述トリックは除くとして)どうやっても作者が神様になってしまうので、その文を書くに至った現実の気配というものが作者の思考性の中で閉じてしまう。そこにその作者の暮らしや地域の出来事みたいなものは(インスピレーションとしてはあるだろうとは思うが)感じることはできない。
夏目漱石の"こころ”の最初は房総の海のシーンから始まるが、
夏目漱石はその房総の海岸沿いを学生時代に歩いて旅をしている。
自分も房総の海岸沿いを何回か歩いたことがあるからかもしれないが
”こころ”の文を読んでいると、そういった夏目漱石の海の体験みたいな視点が多重に感じられるような錯覚がある。(当然、自分は夏目漱石の経験を持っていないので錯覚なのだが)
それは、文章の選択に、文のつなぎ方に、物語の配置に
現実の世界が地続きにあるように思えるからだと思う。
文章のうまさや、その捉え方もあるのだろうが、
ミステリになるとどうしてもトリックという仕組みに囚われてしまって
その現実性にまで至ることは少ない。
(思えば自分が好きだったミステリはトリックの面白さよりも、その物語の中の現実の面白さに依拠していたように思う。島田荘司ではなく綾辻行人の文が好きだった)
"悲しそうな猫の写真はない" (中平卓馬)ように、
何かの意図を持って(それがたとえ美しさを表す目的だったとして)現実を捻じ曲げてしまっている気配のある文に今はのめり込むことができない。
その逆に、作者自体も混乱していて、現実の出来事を現象界の中へ無理やり落とし込んだとしてその枠組みからはみ出てしまっているナニカにとても惹かれる。
ガルシアマルケスが今でも有効なのはそういった理由だろう。
天使が天使として、物語の意図ではない存在として物語に在る、ということ。
吉村秀樹の詩は不思議だ。
詩の中に主体性がない。
誰の意思で、誰の視点で、誰の言葉なのかほとんどわからない詩もある。
ただ、そういった視点の断片が、乱反射が、混乱が重なって
北海道から吉祥寺までの人間の視点が浮かび上がってくような、
そんな感確になる。
主体性の混乱をそのまま詩に表すというのは自分なんかは恐ろしいように感じるが、
その恐怖を持ってあの現実性は成り立っているのかもしれない。
一枚の写真に匹敵するような、現実性を持った文をかける人は少ない。
でも、そういった文を読んだ時、それは書いた人ではなく読んだ人が
その現実性を認めることができる。
かつて、それは、そこに、あったのだと。
虚構に現実性を持たせるという矛盾した行為に今はとても惹かれているのかもしれない。
”繰り越しか まどろむか
拒否するに うなずける
あなどれる おののくか
あちらから 進むには
止まるには つかむこと
見ることの 望みには
変わらずに いられるか
感ずるに 今の調べとrootに賭ける"
と、"方位"の最後には綴られている。