散歩の量がだんだん増えてきている。
近所だけではなく、電車に乗って遠くの駅に行き、その街を散歩するのが楽しい。
千葉の真ん中付近(印西市、佐倉市あたり)の面白さに気づいてしまって
今は臼井と佐倉の間にある丘と森と田園と沼があるスポットを度々散歩している。
このあいだの日曜日もエフェクターを売るついでに(臼井にハードオフがあるので)
染井野団地を散歩していた。バンドのMVもここで撮りたいなと考えながら歩いていた。
染井野は坂が多くて、高いところにひらけた公園や空き地があるのが面白い。
家と家の間に急な階段があって、登ると誰もいない草だらけの空き地があって感動してしまった。
いわゆるフロンティアというのは家の途切れるところにあるものと思っていたが
ここでは家の配置が変わっていて、住宅街の中にフロンティアのような未開の地が多くあるのが面白い。
以前にも書いたが、染井野団地は道路を挟んで左右に家が並ぶ普通の住宅街に見えるが
その道路の端っこ部分が向かいの道路の端っこに抜けられるようになっている。(L字の角部分が繋がった道がたくさんあるとして、その角が通り抜けられるようになっている)
この構造によって表の道も、その通り抜けられる道を介することで裏道のような感覚になる。散歩によって表が反転するのだ。
そこに丘による段差のある構造によって家と家の裏に空き地ができている。
その空き地も違ったルートから見ると普通の道の途切れるところにあるただの空き地であるのに対し、別のルートでたどるとさっき書いたような急な階段の先にいきなり現れる不思議な空き地となり得るような構造になっている。
乗代雄介の旅する練習で、印西市から鹿島へ歩いて向かう女性が書かれていたりしたが
こういう風景の中を歩くというのは楽しいだけでなく、何か精神的な自己修復にもつながる感覚もある。
旅する練習の中で、何かをなすために生きている人が、その自分の眼に映る景色が、出会う出来事が、全てその目標のために思えてくる、捉えようとする、という感覚が描かれるが、自分も散歩をすることでそういった感覚に至ることがある。
景色や、ビオトープに集まる鳥が、散歩する犬が、あるいは誰もいない公園が、
自分の人生の一部だと思えるのは幸せな感覚だ。
離人症的に経験と自分が乖離してしまわないよう、そういった意識はできるだけ保ち続けていたい。
エフェクターをたくさん売ったお金で、安いベースを買った。
前のベースが壊れてしまってからはMIDIの打ち込みでベースを入れていたが
バンドの曲を作っていて流石に生のベースが欲しくなった次第。
Talking Headsなどのリズム主体のニューウェーブが自分の根幹にはあるので
ベースの音符とリズムが同居している感覚は実際に演奏していてとても楽しい。
去年の今頃に五十嵐大介の魔女を読み返していて
知識だけでなくきちんと経験を伴った言葉を話したいと思ったりしていたが
今のところそれは少しずつ実現できているように思う。
別に打ち込みが悪いわけではないが、生ベースを知っていないとできない曲というのは確かにあると思う。