パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

名前をつけて保存

ファイルをダウンロードすると名前をつけろと要求される。

DAWのファイルを保存するときもタイトルをつける必要がある。

 

読む本がなくなったので平日に錦糸町くまざわ書店志賀直哉の掌編集と磯崎新の建築における日本的なものを購入。どちらも面白い。

 

数年前京都に住もうとして市内をいくつか物件見学していた時に(色々あって断念)、トラブルで電車が止まって、京都駅まで歩いたことがある。

 

京都の桂川駅で降りて、大きな川を渡って京都駅まで行ったがその途中ですごくいい感じの道と木々が鬱蒼と生い茂っている庭園みたいなものを見かけたことを覚えている。

京都の街を歩いていて、当初考えていたよりも近代化されているなと思ったが、

嵐山の観光区間の外の静かな住宅街の感じ、鴨川デルタの北側にある住宅街や、その桂川から京都駅の間にあった庭園周辺の雰囲気はとてもよかったのが印象に残っている。ある人の文章を読んでいて桂離宮という言葉が出てきて、自分の中でその時の印象と繋がった。調べるとまさにあの時見かけた庭園の名前で(無駄に勘が鋭いのでこういうことはよく起きる)、興味が湧いてきたので桂離宮の文が載っている磯崎新の本を買った次第。(こういう本が気軽に帰る本屋が近くにあるのはほんとうにありがたい)

 

読んでいると、建築の本というよりは日本の文化論の話まで至っている印象でとても面白い。たまたまyoutubeはっぴいえんどのドキュメンタリーをみかえしていたりして、日本語の歌についていろいろ考えていたタイミングだったのでよかった。

 

はっぴいえんどのドキュメンタリーの中で、春よこいの歌詞の話があって、

カルタやコタツやお正月といった日本の伝統に結びついたものを歌詞として使うことの意味を思ったりした。

先週、友人とイエローサブマリン音頭の話をしていて、竹内まりあがこの曲を歌うはずだったがビートルズへの敬意がありすぎて断ったみたいな逸話を聞いた。確かに、ビートルズを音頭にするというと、ネタというか、いなたい感じになるように思われて、特にビートルズという当時の人たちからしたら文化の聖域のようなところに自分の田舎のダサい感じを混ぜるのは抵抗があるのは理解できる。ただ、大瀧詠一はまさにそういったダサい(としている)日本的なものに対して、君たちはきちんとその構造を知っているのか?という問いを示したかったのではと思う。

イエローサブマリンのリズム構造を音頭に結びつけるという領域横断ができるのは日本人だけであって、そこに引用だけでないその先へ行こうとする意思を感じる。(リズム構造だけ見たら、イエローサブマリン音頭も君は天然色も同じだ)

YMO細野晴臣トロピカル三部作が、日本人が恥ずかしいと感じないように(かっこよく)するために、海外の視点で日本を見るということをやっているのだと思うが大滝詠一はあくまで日本列島側の視点で海外を見ている。この視点が完全に反転している位置関係を見るとはっぴいえんどで一緒に音楽を作れていたのは奇跡のような出来事だったんだと感じる。(実際ドキュメンタリーの中でも二人の仲が悪くなってそれを歌詞にしたと松本隆が語っているし)

 

はっぴいえんどにしても、大滝詠一作曲の歌は松本隆の詩や自身の作詞のどちらにしても日本的な(ダサいとかんじるような)単語が多く登場するような気がする。

春よこい、颱風、かくれんぼとか。(全部が全部そうではないが。十二月の雨の日とか抱きしめたいとか、空色のくれよんとかめちゃくちゃかっこいい歌詞も多い)

 

それに対して細野曲で日本のいなたい単語が出てくるのはボツになった手紙に出てくる"おふくろ"という単語くらいではないかなと思った。

夏なんですとかも描写は田舎的だが単語は洗練されていてかっこいい。

 

 

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はっぴいえんど以降でこういった日本列島的な視点で作詞や音楽をやっている人はすくないなと感じて、自分でも少しやってみたいなと考えたりしてる。実際、はっぴいえんどの3rdからはこういったいなたい単語は完全に消えて松本隆の作詞は洗練された方向へ向かっている。そして細野晴臣は風来坊や無風状態で海外の視点へ移行を始めていて、大滝詠一はソロの自作詞でノベルティ路線へ向かう。

日本列島的な視点はそれ以降、はっぴいえんどのメンバーでさえ、たまにかいま見せるくらいで後に続いたミュージシャンは自分はほとんど思いつかない。

 

春よこいの詩がすごいのは、そういったダサい単語をそのままの意味で使用してノベルティではなく現代詩として通用するレベルまで落とし込んでいるところだと思う。そしてそれをきちんと聞ける素晴らしいアレンジで作曲している大滝詠一もすごい。(余談だが、昔サニーデイ・サービスがこの曲をカバーしていてそのアレンジも凄まじくよかった。どこかで動画がふたたびみれますように)

 

 

u-nextのおすすめに、赤毛のアンの前日譚を描いたアニメが出ていたので見始めている。

アニメはほとんど見ないが高畑勲は好きなので赤毛のアンのアニメは見ている。

 

前日譚の方は流石に高畑勲のようなキレッキレの演出はないが、アンの良さが出ていて面白い。ただ、脚本が少し筋書きがきちんとしすぎていてアメリカ的ではないなとおもったり。高畑勲版はありえないくらい何も起こらない日常をアンという領域横断ができる人物によって芸術化していく様を描いていて、その人が何かを生み出す瞬間それ自体を作品としているところに毎回感動する。(ジブリのドキュメンタリーとかも面白くてよく見るが、あれも見ていて作っている作品に関係なく、作ること自体が物語る価値があるものであることを強く感じる)

 

アンは名前をつけれる人で、まだ十数年そこそこの(しかも全く豊かでない)自分の人生の中から、素敵な単語を選び出して目の前の風景や動物に別の名前をつけることで物語化をしていく。はたから見ている人たち(マリラとマシューたち)は自分たちの平凡だと思っていた生活に、アンが名前をつけ始めることで別の視点が、考え方が、世界が立ち上がってくる。その視点の転換こそがこの話の面白さでむしろそれ以外は無いと行っても良い。アンが不幸な目にあって、やがて克服するといったカタルシスもあるが自分はそれは物語を成立させるための着色であってこの物語の本質では無いと感じる。

アンの言葉に感銘を受けるのは(共感ではない。わたしやマリラやマシューはアンが経験した事柄を経験していないのだから)、アンの人生の中で実際にあった、思考した、視点/経験から言葉が生まれているからだ。アンにとって素敵な名前は"コーデリア"で白く美しい樹木は"雪の女王" となるが、それはアンがゼロから作り出したものでは無い。自分が読んだ本や聞いた話から目の前の出来事を結びつけて、その間を横断して自分だけの物語とする。だから、アンの視点は突拍子もないし他人に完全に理解されることはない。ただ、その視点の純粋さ(アンがアンとして自分の視点で風景を捉えようとしている)それ自体が何かを作る出すことの第一歩なのだと思い出される、そこに自分は感動するのだと思う。

アンがいなければグリーンゲイブルズの樹木はただの木々でしかなく、雪の女王たり得ない。しかしアンが名付けることによって、そこに可能性が生まれ、もしかするとその考えが誰かに伝わって、雪の女王がアンからその先の世界へとつながることができるかもしれない(偏在できる可能性)それ自体が希望であると。

 

作曲をして、デモを作ると名前をつけなければならない。

自分は作詞をするときはその一週間以内で考えていたことに限るようにしている。

それは過去の蓄積で書こうとすると嘘がつけてしまうからだ。

別に嘘の歌詞が悪いとは思わないが、自分が作ってそれを歌うとなると絶対にまともに歌えないと思う。(それは嘘だから)

自分が見たことを、自分の立っている視点で(かっこをつけるのでなく)自分の言葉でカッコ良くできるのが、一番やりたいことだと思っている。