パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

スペースゴールデンウィーク

GWは10連休だったので地元へ帰り、

電車で生まれた街へ行って水路を巡ったりしていた。

水路

長期休みは本をたくさん読みたくなるが

今年はリチャードパワーズを読んでいたので控えめに。

法条遙のリライトシリーズ、綿矢りさ、ルシア・ベルリン等々を読む。

 

と思ったが富山駅で古本市をやっていてそこでリチャードパワーズのエコーメイカーを見つけて購入。

 

富山は映画館、レコ屋(ブックオフも)、古本屋が多くて住みやすそうだなと改めて感じる。

(楽器屋はもうほとんどのこってないけど)

 

GW後半は東京へ戻る。

帰省中にいくつかアイディアが出たのでバンド用の曲を書いたり、川でキャッチボールをして過ごした。

 

富山の水路をめぐる旅が楽しすぎて水路関係の本やちょうど発売されていたフィールドレコーディングの本を読む。精神が外に向いていて良い感じ。

 

今年の初めに高畑勲の柳川掘割物語を見てとても感銘を受けてから自分は水路が好きなのだと初めて自覚した。

 

初めて本屋で取り寄せ注文した漫画もヴェネチアが舞台の鶴田謙二のForget-me notだったし、火星の運河を幻視したパーシヴァルローウェルの話に共感して高校時代は天文学の本もたくさん読んでいた。

 

なんとなく、そういった仕事に関われたらなぁと思い、色々と調べているところ。

 

休み明けの週末、シンウルトラマンのチケットをもらったのでレイトショーへ。

これ必要か?というカットが多くてあまり乗り切れず(庵野秀明ファンには受けていた。満席だったし)

 

シンゴジラも初日に見た記憶があるがその時も満席で、(おそらく)映画を普段見ない層がたくさん来ている感じで良いことだなぁと思った。でも、こういう映画に反応している層はそもそもシネフィル的なものを嫌悪していそうとも(偏見か?)

 

ウルトラマンは特に熱心に見たこともないので元ネタなどを楽しむことができなかったのも原因かもしれないが、ドラマで配信した方が良いのではという脚本だった。

 

渋谷でエリックロメール の四季シリーズを上映しているとのことで

みたいな〜と思いつつ渋谷へ行きたくない病が発症しているのでDVDで。

 

春のソナタを見て、ズームの使い方、パンの振り方がすごくてテンションが上がる。

鏡を多用したカットに人間関係の類似と相違がメタファーとして強調される感じや、

アプリオリ等の会話劇でケムに巻いているようで、郊外とパリの両方の美しさをきちんと捉えている。

なんでこんなに何にもないような話なのに楽しめるのだろう。

 

春のソナタ-エリックロメール

 

去年ちょっと流行っていたライトハウスの配信が来ていたのでみる。

タルベーラをやりたいけどそこまでの度胸はないので少しホラー風味にしましたというような感じ。良作。

 

ロメール の四季の物語は全部DVDで見ることになりそう。

 

 

 

 

Whatever I want(How we walk on the moon)

ビー・ガンの映画を観て映画欲が出てきたので、中国、台湾圏の映画を色々観ている。

 

エドワード・ヤンを観返していて改めてこの人は群像劇を群像劇ではない形で作品化した人なんだなと思う。初期の台北ストーリーはそれ以降の各作品に見られるテーマが散見されるものの(青年の殺人、機械の有機的な結びつき、4角関係等々)主人公のカップルにカメラは注視している。

その一年後に作られた恐怖分子からは明らかに映画としてのグレードが上がっていて驚く。

 

 

画面の構成や細かい話などは割とどの作品も似ているが、恐怖分子以降の作品はカメラは一人の人物を追うことはしない(ヤンヤン夏の想い出でさえ、家族それぞれの話が散文的に散りばめられる)。主観を持たないカメラは、街そのものを監視カメラのように(しかし監視カメラにしてはあまりにキマッていて美しい構図で)隠し撮り、バラバラの断片を集めるように編集され映画化される。

まるで街が見た夢のような映画だ。

エドワード・ヤンの映画ではあくびをするシーンが多い。恐怖分子で言えばラストの仕掛けそのものが夢の現実への侵入でもある。

 

パトカーのサイレンが響く街で、それをあらゆる場所であらゆる人が聞いているということ。音がつなぐ見えない関係性は、(または電話線がつなぐランダムな人間関係が)無作為に見える(実際は綿密に計算しているのだろうが)編集によって少しずつつながっていき、やがて曖昧な、結末のないまま闇へと消えていく、その不在感に惹かれる。

だれの視点でもない映画。

 

恐怖分子と同時代に書かれた伊藤重夫氏の踊るミシンという漫画にも似た感覚を覚える。ランダムに配置された話たちと街を飛び回る無数の見えない感情たち。

それらがいつのまにかつながったように見えて、繋がらないまま拡散してゆく。

 

”そんな思いが空中をとびまわってんの やだろう?”と田村は言う。

 

自分が好きな漫画はいわゆる漫画的な手法に収まっていないものが多い気がしている。

映画的な構図で、私小説のような話で、そのどちらでもなく漫画として成り立っているような作品。白山宣之伊藤重夫三好銀豊田徹也といった人たち。

 

漫画的なものも好きではあるが、好きな作品を考えるとどうしてもそうした領域横断的なものに惹かれてしまう。

 

カッコウが鳴くあの一瞬

f:id:thebachs:20220410215642j:plain

 

 

arauchi yuのライブを見に渋谷へ行く。

その前に時間があったのでユーロスペースでレオスカラックスのアネットを観る。

 

カラックスはポンヌフの恋人が苦手でそれ以来観ていなかったがスパークスが音楽、原案ということで観た。

 

流れで初期の作品も見たが、この人は話やフレーミングは過去の映画をシネフィル的にすくい取って場面を作っているように感じた。ただ、そこに(あきらかにわざと)イマジナリーラインをぶち壊すようなカットが挿入されることで過去の映像を突き抜けて画面のこちら側へ向かうような感覚になる。

 

そこに惹かれる人がいるのはわかるが自分としては、イマイチ乗れない感覚が拭えなかった。

アネットに関してはそもそもミュージカルが苦手なので、、

 

その後ライブへ。

arauchi yu - Siseiのライブは本当に素晴らしかった。

f:id:thebachs:20220410213607j:plain

siseiは2021年に出たアルバムで一番聴いたかもしれない。傑作。

整理番号が一桁だったので客入り大丈夫か?といらぬ心配をしながら

渋谷クワトロへ行ったが、物販のところに一人も人間がいなくてビビった。

 

ご時世も相まってディストピアな感じでテンションが上がる。

 

ライブ開始前には人も集まって満員くらいになっていて

こういう音楽性で人が集まるのは東京の少ない利点だなと思う。

(自分の励みにもなるので、、)

 

ライブについてはあの音源をどう演奏するのか気になっていたが、

去年に一度延期になったこともあり、アレンジを大幅に変えた曲もあった。

 

いきなりClose to youのサンプリングから始まって驚いたが

(最近バカラックを聞き直しているので、自分の実生活とリンクした)

そこから、曲で使われているサンプリングフレーズへ展開していくアレンジになっていて

感動した。サンプリングネタが元の姿から変容して別の曲になる瞬間、それに気づいた時のあの一瞬。

 

公開されているインタビューでも語られていたが、サンプリングされたフレーズは音源ではわざと目立つように(演奏とまざりあわないように)イコライジングしているようで、サイボーグというかコラージュというか別の世界のものが同時に存在しているような感覚に陥る。

 

ライブではそれがClose to you→断片が切り取られ→楽曲のサンプリングフレーズに変容するという流れだったので、異世界へ侵入していくような感覚になってさらに素晴らしかった。

 

ceroの方でもよくテーマとなるパラレルワールドであるが、あちらは言葉による力が大きい。

CTCなどの荒内作曲のものでも言葉をきっかけに曲がパラレルワールドへ侵入していく様は今回のライブへと通ずる感覚かもしれないが、やはり言葉ありきに見える。名曲だけど。

 

Siseiは歌詞はあっても英語で、だからこそ、音だけで異世界の存在を感知できるのはすごいと思った。明らかにサンプリングとわかるフレーズは生で観ることで本当に別の世界の音が

間違えてスピーカーに紛れ込んできたように見えた。そしてそれに合わせて舞台上の楽団が即興演奏を行なっているような。。

 

もちろん、リズム面を含めてかなり練り込まれた編曲がなされているが

それにもかかわらず、サンプリングフレーズとのバランスによってなんとも言えない自由な感じがあった。(少しAnimal Collectiveが2009年ごろにやっていたSP-404だけのライブを思い出しす。あれもMIDIの同期はなく、各メンバーがサンプリングされたBPMの決まったフレーズをパッドを押して音を出すことで絶妙にずれていて、サンプリング音楽なのに身体性があった)

 

www.youtube.com

 

ライブ中にメモをとったのは初めてかもしれない。

それぐらい自分のやりたいことを目の前でかなり理想に近い形で見せられてしまった。

 

最後にアーサーラッセルのThis is how we walk on the moonをやって、心の底で同意した。

(フランクオーシャン以降の世界で、HipHopやトラップも落ち着いてきたいまこそ、この曲だよなと。)

 

次の週にはリチャードパワーズの黄金虫変奏曲が届いて今読んでいるところだが

こちらも異質なものをくっつけるようなイメージの小説で面白い。

 

現実世界に異物を侵入させるために、私は曲を作っているのだと再認識する。

 

 

 

 

 

 

パラレルフォトグラフィ(平行写真)

平行写真という概念について考えている。

 

ステレオグラムのように左右の目の視差で立体化する写真ではなく、

ステレオグラムのように並んだ写真をそれでも別のものとして捉える事。

 

パラレルな連続体(あるいは並行世界としての非連続)として捉える事で

その物体の類化された部分が見出されそこから異界への扉が開くのではないかと考える。

 

f:id:thebachs:20220323223002j:plain

ステレオグラム 左右の目の視差で立体になる

 

同じ写真を二つ並べて、実は別のものなのだという定義をすれば

そこには別化性能的な頭の機能が働いて、違いを見つけ出そうとする。

しかし写真は本当は同じものなので、現実の部分での別化は不可能である。

つまりここで強制的に類化性能の回路が開く。

 

このやり方は、いわゆるネットミームマンデラエフェクトを擬似的に発生させるような感覚に近いのかもしれない。

 

ja.wikipedia.org

 

現実として明らかになっている(帰結している)状態のものに対して、

その裏側にある別のパラレルな可能性を示唆するための思考法。

 

または、写真は、その写真側の視点だけでなく、視点を180度回転させて撮った側に視点を向けることで初めて立体となるといった感覚にもこの平行写真の考えは通づるのかもしれない。

 

だれも知らない、とった覚えがない、けれども知っている写真。

並行世界のノスタルジイのアタイズム。

 

 

 

砂の女かもしれない

例えば知らない街にいって、そこにある路線バスに乗ったとする。

そうすると高確率でなんだかよくわからない名前のバス停に行き当たる。

 

電車であれば地名が駅の名前になるが、路線バスの場合、停車場所が同じ地名の中に複数あるので、より具体的な場所の名前がつく。

 

〇〇医院前とか、〇〇センター前とか、〇〇スーパー前とか。

 

病院みたいなどの街にも共通の施設であれば予想がつくが

地方特有のスーパーだったり、その地区にしかないお店の名前がついたバス停などは初めて訪れた人にはなんだかよくわからない名前に聞こえるだろう。

 

そして、そういう場所が時代の流れで閉店していて名前だけがバス停として残っている場合がある。

 

また、それはいつか街の人でも、どんな場所だったか思い出せなくなるような、意識のアクセスができなくなるような場所になり、変な名前だけが一人歩きするようになるのだろう。

 

この間、写真家の芳賀日出男の神様たちの季節を読んだ。

折口信夫の研究内容を辿って全国のお祭りの写真とそのお祭りのルポのようなエッセイのような文章が書かれた本であった。

その中で、風流という言葉があってお祭りは時代に合わせて通俗化(風流なもにになり、観光客を呼び寄せる)したり、神聖化したり(内神楽のように外部の人には見せない秘儀のようになる)するという話があり、なるほどなぁと思った。

 

自分の生まれた地域にも獅子舞の伝統があり、自分は子供の時に獅子獲り(獅子をなだめる、眠らせる童子)をやっていたことがある。

 

4つほど舞いがあって口述伝承でそれをならったのだが、

その踊りも、どういう目的でどんな意味があるかというところまでは、先生だった長老たちも誰も知らなかった。

 

つまり、舞いの意味性が消えて、季節の行事ごととして獅子舞が存続していた。

もっというと、獅子舞はその年にお祝い事があった家に出向いて舞い、その家からはお礼としてお酒と料理とご祝儀をいただく。獅子舞の関係者たちはどちらかというとその食事とご祝儀が目当てだったように思う。(自分も小学生ながらその数日で数万円くらい稼げた)これはやはり、名前だけが残り、その意味性がなくなった状態で通俗化した結果なのだろう。(”さよなら心やさしき時代劇”という大島弓子漫画の言葉を思い出す)

f:id:thebachs:20220313000152j:plain

大島弓子-四月怪談。傑作です。



 

ただ、今になってよく考えてみると獅子舞は以下のような手順で執り行われていた。

 

まず獅子は地域の神社に祀られていて、一番最初にその神社で童子が舞い、獅子にその地域のスピリットを呼び込み、一緒に地域の家々を回ってそのお祝いと厄災を祓うよう頼み込む。

それが終わると一旦地域の公民館に戻り、獅子と一緒に一晩食べて飲み明かす。

ここで異界のスピリットである獅子が現実世界の住人たちと一緒に食事をすることでと目に見えないスピリットを現実世界へよりリアルに具現化しているのだろう。

 

そして次の日、人とスピリットが同一化した状態でようやく地域の家に出向き舞いを披露する。

 

この流れからして、地域に潜む厄災としての獅子を鎮めるのではなく、獅子の力をかりて厄を払ってもらうというのが祭りの本位だろうと思う。

しかし、その舞いのなかで最も難しい(そしておそらく最も近代に作られた)舞いは、童子の舞いに見とれさせて最終的に獅子を狩るという内容だった。

つまり厄払いとは関係ない内容なのだ。

 

これはおそらく、獅子舞が見世物として歌舞伎化、エンタメ化したのだと思う。(厄払いの舞から観客へ見せるためのストーリーへと変貌した)

 

www.youtube.com

 

youtube折口信夫について中沢新一が語る動画があったので見たのだがこれがすごく面白かった。

 

中沢新一のカイエソバージュでも語られているが、別化性能と類化性能についての内容にすごく納得した。人と熊は違うものとして語るのは簡単であるが(というか現代人のほとんどは人と熊は別物ととらえているだろう)、人と熊の類化をすることでその見えないつながりを感じること(同じ地域に暮らす、同じ魚を食べるといったこと)、こういった別個のものをつなぎ合わせる領域横断的な思考が芸術を生み出す想像力なのだと中沢新一はいう。

この世のものではない何か(感覚)をこの世のものとして生み出すこと。それ自体が創造ということだろう。(神楽のお面などをみると人でも動物でもないその中間のような造形のものが多くある。獅子だって存在しない生き物だ。)

 

自分はラカンの性格類型でいうと完全なINTJ型であるためこの類化の思考の感覚がすごくしっくりくる。

 

なんの繋がりもないものの共通性を見つけ出した時に一番興奮するし、いい曲ができるのは基本的にそういう時だ。(無理やり作ることもできるが楽しくはない)

 

世間の流れに合わせて人と獅子を別のものとして分けてしまった(退治してしまった)獅子舞は今ではもうその行事ごとなくなった。

これは単に少子化が原因かもしれないし、寓話のように取り扱いたくはないが、

自分が子供の時に、すでに見えなくなっていた舞いの意味性、獅子と人との類化をもしあのときにすこしでも気がついていたら、あの獅子舞を存続させることができたのかもしれない、と今になって少し思う。

 

獅子舞の練習をしていた3月になるといつもあの時の夜の感覚を思い出す。

少し切ない

 

 

染井野住宅地 幻想紀行

祝日で天気も良いので思い立って小旅行へ行った。(日帰りで千葉で散歩するだけだが)

 

京成臼井駅の南口の丘にある染井野住宅街。

南口の王子台にあるブックオフの品揃えが良いのでこの辺りには遠征がてら良くいく(サガンの短編がなぜかいっぱい売っている不思議なブックオフ)

 

ブックオフには最近までハードオフが併設されていて、中古楽器が結構あったので

本やCDのついでに安い楽器を買ったりしていたのだが、最近そのコーナーがホビーオフになってしまった。

 

というわけでブックオフはスルーしてさらに丘を南下して染井野住宅街まで行って見た。この辺は前に歩いたことがあって雰囲気も良くて静かなので全然近所ではないが散歩向きで好きな道だなと思っていた。

 

f:id:thebachs:20220223212522j:plain

染井野の住宅街


今日歩いて見て気づいたのが、

住宅街の車道がL字をいくつも繋げたような構造になっているのに対し、

人や自転車が通れる歩道はL字の角の部分でつながっていて通り抜けられるようになっていた。(車がL字に沿って進まないといけないのに対し、人はL字の角の部分を突き抜けられるのでそのまま反対側のL字の角に出られ擬似的な直線の道ができていた。

おそらく住宅街での車と人の接触事故を防ぐための対策なのだろう。

いわゆる路地裏の道とは違い、家と家の間を表の道としてショートカットできて面白かった。(こういう構造の街はけっこうあるのだろうか。すごくよい考えだと思った)

 

また、その構造からどの道をみても同じに見えて(L字の角を抜ける、同じ反対向きのL字の道が現れる)、鏡の世界のような不安定な幻想感があった。

 

実際、突き抜けの道を自転車で通り過ぎて行った小学生の二人組がまた戻ってきて

"たぶんこっちで合ってるよ"と言ってとあるL字のブロックで曲がっていく様を見かけた。

 

この街で暮らせるのは楽しいだろうなと思った。

角の先に何があるのかわからないという感覚は自分が散歩をする理由のひとつ。

(国木田独歩が武蔵野の中で似たようなことを書いていてすごく共感した思い出がある)

 

もちろん、すべてが同じ構造になっているわけではなく、たまに大通りを挟んだり、公園が現れたりする。

 

そして一番驚いたのが公園の端に人しか通れない道があって(今までのL字を突き抜ける道と違いこの道は路地裏のような感じで家の裏を通るようになっていた)

ここを抜けると四方を住宅に囲まれて表のL字の道からは隠れる形で広場があった。

 

路地裏のような道はこれまでの明るい表の道との対比もあって明らかに異質な雰囲気があった。初めての人は、これまでの表の道のルールから外れているこの道は通らないのではないかと思う。(私有地にも思えるので)

 

自分は道の先が気になってグイグイ進んでいく方なので、そのまま歩いていったが

まさか広場があるとは思わなかったのですごく驚いた。

何かの本でヴェネチアにも似たような住宅に隠された広場があると読んだことを思い出した。

 

四方が家なので球技などで遊べるような場所ではないし、そもそも住んでいる人でも知らない人がいるのではという感じの場所なので当然人もいなくて、住宅に縁取られて音も消え、本当に異界に迷い込んだような感じがして楽しかった。(少しして掃除のおじさんがきて、普通に公共の場として管理してるんだと知った)

 

街を散歩していると面白いのが時代の違うものが重層的に一つの場に存在していて、

例えば、家の塀の内側に電柱があったりする場所は電柱の後に家ができたとわかるし、路地裏を抜けないとアクセスできない神社なんかもあったりする。

 

だれか一人の意思で街のすべての構造を作り出すことはできないのでそういった重層的な風景が見られた時は、過去の街を少し思って見たりするのも楽しい。

(東京は更地にしてマンションを建てたり、お店が潰れても別の店が入るだけだったり、そもそも頻繁に建物を壊したり、テナントが変わったりするので重層的になり得ないのが寂しい。暗渠とかを巡ってみるのは楽しいが)

 

昔、住宅地の中に森のような場所があって行ってみようとしたが、

アクセスできる道がどこにも見当たらず、目の前にある森にたどり着けない感じがすごく虚構感があった。

 

目に見えるのにさわれない領域。

 

かなり大きな森で誰かの庭とも思えなかったが、あそこもひっそりとアクセスできる道があったのだろうか。

 

 

 

Memen To Memory

土曜日。ずっと見たかった中平卓馬ドキュメンタリー映画(カメラになった男)がyoutubeに上がっていたので見た。

 

成為相機的男人——攝影家 中平卓馬 - YouTube

 

ドキュメンタリーというと中平卓馬に絡まれそうだが。

 

逆行性記憶喪失がどういった病気かは詳しくは私にはわからないが

過去のある時期の記憶をなくしてしまった中平卓馬が過去の写真や出来事、友人の名前(特に森山大道)を何回も何回も繰り返す様を見て、記憶とはなんと不確かで儚いものだろうと思った。

私の中からこぼれ落ちていったいくつもの何もない日々を思う。

 

その日にあった出来事をタバコの箱に書き留め、

夜に読み返して確認する記憶と記録のすり合わせ作業のシーンで

まさに中平卓馬がカメラそのもののように感じた。

 

f:id:thebachs:20220220230032j:plain

中平卓馬のメモ

 

森山大道が新宿でスナップをする様を収めた番組を見たことがあるが

森山大道の場合はほとんど盗撮に近く、ノーファインダーで撮ったり、

カメラを覗くとしても対象物とのコミュニケーションは全くない(擦過ということだろう)

 

それに対して中平卓馬のスナップは、対象物へ話しかけ、時には地元のカメラ好きのおじさんとして記念写真を頼まれたりしていて、全く別物であることがわかって驚いた。

(もちろん、森山大道と同じように寝ている人を勝手に撮るといった場面もあったが

起きている人に対しては基本的に話しかけている)

 

自分の中で、森山も中平も写真へ匿名性を求めた写真家だと思っていたが

スナップのやり方を見て、その志向が明らかに別のものであると感じた。

 

近所の猫を撮るシーンで、猫が逃げないのは俺が写真家とわかっているからだと中平が言う。

そしてその猫の写真を見ると、中平の作家性などはなく、猫が猫として(モニュメントとして)見えるのが凄い。

 

牛腸茂雄の写真だと、カメラマンと被写体の関係性がよく見えるが、

中平のスナップと出来上がった写真の関係性の気薄さに驚く。

この世のどこにも中平卓馬などいないようにその写真は写真として、被写体は被写体としてそこにある(ように見える)

 

森山が狩人のように街から風景を盗み取るのに対し、

中平は街に擬態し、同化し、被写体は(それは人間や動物だけでなく非生物も含めて)本当は誰にも知られずに行うような非常に個人的な行為や表情を中平の前にさらけ出している。

 

東松照明の展覧会のタイトルにいちゃもんをつけるシーンは感動的で

周りが酔っ払いの戯言のように扱っているのに対し、中平はいたって真剣に写真を創造する(作家が意図して写真を創り出す)ということに対して反抗している。

展覧会の主催者がなんとなくつけたタイトルなのだろうが、そこにきちんとこれはどういう意味だと疑問を投げかけ、私の意見はこうで、ここが気にくわないとはっきりと意思表示するところはprovokeのころと何も変わっていないと感じた。

 

youtubeに上がっていた動画の元は、きちんと映画館で上映された作品なので

明らかに違法アップロードであるが、こういう貴重な動画が見れるのがyoutubeの唯一のいいところだと思う。

ジョナスメカスのリトアニアへの旅の追憶を違法アップしている人がいて、その人は消されるたびにまたアップするという活動を行なっているらしい。メカスの作品も今ではめったに見る機会がないため、違法だとしてもそういう作品を見られる環境を残しておきたいという。

 

確かに、レアな映画や動画ほど熱心にアップされている印象があるし、

そういう作品は基本的に知っている人も少ないので

相対的に消去されるのが遅れる印象である。

 

素晴らしい作品はひっそりと確かに拡散していく。

(タルベーラのベルクマスターハーモニーとか、黒沢清学校の怪談シリーズとかもyoutubeで初めて見た)

 

日曜日。

近所にめちゃくちゃ良い本屋があるので、散歩がてら寄る。

ジョナスメカスの難民日記が新刊で売っていてビビったが、お金が足りず断念。

中沢新一と呉明益から台湾小説にハマっているので、台湾小説をジャケ買いする。

 

家で今度は森山大道のドキュメンタリーを見る。

NHKで放送された犬の記憶は自分が森山大道を知るきっかけになった番組で

初めて見た時のことを今でも覚えている。(たしか中学生の春休み)

内容に感動したとかというわけではなく、なんだかよくわからないが凄いものを見たという感覚があって、のちに大学に入って一人暮らしをするタイミングで文庫本の犬の記憶を買った。初めて読んだときはまったく理解できずに挫折したが、ジャックケルアックの路上を読んだ後に再読し、その文章からする雨の匂いや路上のタイアの擦れた匂いにいたく感動した。

 

子供の時に見た映像が、ずっと頭の中に残っていて

巡り巡って自分に返ってくるようなことがたまにある。

 

小学一年生の夏休みに見た杉井ギサブロー版の銀河鉄道の夜

高校生の時に映画にハマり出した時に再発見し、それからなんども観る映画になった。

 

中平卓馬はある時期の記憶をなくしてしまったけど

スナップをすることでその消えてしまった記憶を記録として蘇らせようとしているのかもしれない。当時の自分と今の自分が同じ個体であるということは証明ができない命題であるが、同じあるものに反応し、あるものを発見する時、過去は≒で現在になるのかもしれない。