パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

どこにもないところからの手紙

ウォンカーウァイを克服しようとしていくつか作品を見るが全部途中で断念。

岩井俊二を、もうきちんとした気持ちで見れないのと同じで、思春期にしか見れない映画のような感覚(それが悪いわけではない、とは思う)

 

代わりにホン・サンスをいくつか観返していた。

 

”自由が丘で”で行われている時系列のシャッフルは、シャッフルではなく並行世界のようにも取れるが、他の作品と違って前後の小話に別の時間の断片が潜んでいて、やはり同一世界の意味合いが強く感じられる。そしてラストのラスト(この言い方がこの映画では正しい)でカタルシスと思われた後に来る、本当になんでもないシーンを見た瞬間に良い映画だなと思えるから不思議だ。

 

先日サニーデイ・サービスのライブに誘われていった。ライブでサマーソルジャーを演奏していて、前日に見たホン・サンスのこともあり、何かのインタビューで曽我部恵一氏がサマーソルジャーを書いた時に、"何も起こらないけどなんとなく気分が良くて覚醒している感じ"を曲にできた、というようなニュアンスのことを言っていてとても同意したことを思い出した。

フィッシュマンズは"退屈を音楽にしたい"と言ってたが(忘れちゃうひとときを聞くとまさにその感じを受ける。素晴らしい曲)、これは近いようで少し違う気がしている。

 

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散歩をしていると、なんだかわからないけど"この道のこの感じ"とか”名前の知らない植物の匂いを過去どこかで嗅いだことがある感覚"といった微細な事柄が合わさって覚醒していくことがよくある。これは毎日同じ道を歩いていてもその都度覚醒するタイミングは違う。(特に東京に来てからはそう感じるようになった。田舎にいた時は逆にその変わらなさによってある特定のルートがその時の自分にとっての覚醒スポットになっていて、儀式のように決められたルートを辿って覚醒できるようにしていた)

 

レヴィ=ストロースが野生の思考で語っているように

現代の思考法以外のやり方で生きることは必ずしも効率が悪いわけではないと自分も思う。

朝、散歩をしていて、梢の向こうにある朝の空の感じとまだ眠くて、しかし冷たい空気で少し頭が冴えてくる感覚。そういった状況でしか感じることのできない気持ちは確かにあって、それを言葉にするのはとても難しい。

 

曽我部恵一氏も佐藤伸治氏もそういった感覚を音楽にしたのだと思う。(こう書くと、言葉にできないから音楽にしたという意味にも取られるがそうではなく、あくまで現代の言語、現代的な理論に従った証明をせずにその人の中にある"野生の思考"に従ってその感覚を表すこと。それ自体が作曲の一部である。といった意味で捉えている)

 

レヴィ=ストロースの読みすぎで少しストーリーのある本が読みたくなって柴崎友香氏の小説をいくつか読み返している。

柴崎友香の中で好きな話はいくつもあって、読み返したくなることも多いのだが

この人の小説の特性上、それがどの本に収録されているか思い出せないことが多い。

シチュエーションがあって一人称視点で独白もあるがその意味性などはほとんど取り払われていて(よく読むと話の流れはもちろんあるのだが)それによって初めて読む人、物語を読もうと意気込んでいる人には何を目的としてこの小説が書かれているのかわからないかもしれない。(そもそも書かれた目的、演出の意味などを知ることがその小説を理解すること、では決してないと思うが。最近はこういう考えの人が多いようにも思う。youtubeの考察動画とか)

しかし、そういった断片的物語が積み重なって(まさに同じ話が別の誰かで代用されて重なったりする)知らない街と知っている街が繋がって、知らない誰かと知っている誰かが自分の知らないところでつながっていく。それを俯瞰的に見れるという幸せがこの人の小説を読むたびに感じる。一見すると、些細な物語にも小さな幸せがあるといった形で捉えられかねない小説ではあるが、そういった寓話的な思考ではなくもっと覚醒に近い感覚に至るのは、物語と物語の間に時間も場所も国も超えた見えない繋がりを感じてしまうからだろう。

 

秋は自分にとって散歩の季節で

毎日覚醒する瞬間が来てとても楽しい。

 

春になるまでこんな生活が続くと良い。

 

 

 

伊藤重夫-踊るミシンについて その1

-introduction-

伊藤重夫さんの踊るミシンという漫画のオリジナル版(のちに復刊版が出る)の帯には以下のような煽りが書かれている。

“踊る美少女 飛びまわる鳥男 7月の海岸”

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そしてこの漫画を読み終わった人たちはこの帯文に深く納得するだろう。
なぜなら、この踊るミシンという話はあまりに混乱しており、話の主題(そんなものがあるとして)に対する前振り/結末が書かれることは無いまま終わる。話の時系列も乱雑に接続されていて、どの話(あるいはどのコマ)がどこにつながっているのか一読してわかることは無い。そして読み終わった後には上記の帯文のような断片的な(しかしとても美しい)映像のみが頭にこびりついているだけで、この話がいったい何を表しているのか理解するのは難しいだろう。

踊るミシンは団地に住むとある姉弟が屋上で鳥男を目撃するシーンで幕を開ける。
しかし、このシーンがこの漫画の時系列で一番初めの話なのだろうか?

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例えば、物語の中盤で田村と麗花が鳥男の噂をするシーンがある。
団地の屋上に現れる空中に浮かぶ男の話。田村は団地と団地の間を綱渡りしているトリックだとうそぶく。

もしかしたら、冒頭のシーンはそんなうわさ話のように、誰かから伝わった話の再現シーンだったのではないか。実際、冒頭のシーンの姉弟と主人公たちが話の中でからむことは無いし、例の団地に主人公たちが訪れることもない。

つまりこういうことだ。

鳥男は怪談話の中の人物で実際には(漫画内の現実)存在せず、そのうわさ話が映像化されているのだと。

しかし、もし鳥男がうわさ話の中の人物であったとして、この漫画ではそのうわさ話と漫画内の現実の話が同等に描かれている。(どちらも現実の話のように。

これはかなり危険な描き方だ。

例えば、冒頭の姉弟のシーンの後に田村たちが鳥男の噂話をしているシーンにつなげば、読者は“ああ、さっきのシーンはうわさ話のイメージ映像だったんだ”と理解できる。しかしそうはせず、冒頭のシーンの後、今度は同じ地続きの世界の話として田村たちの話が始まるのだ。こうすることで、読者は田村たちの生きる(漫画内の)現実世界にも鳥男がいるのだと錯覚してしまう。(つまりこの漫画は現実世界に鳥男が生きている漫画なのだと。団地の中にサイキックが生きている大友克洋童夢のように)

この感覚は漫画のリアリティを美しく混乱させる。

例えばもし、この冒頭のシーンがなければこの漫画の帯文は違ったものになるだろう。
高校生の男女が音楽バンドを組んで青春を謳歌し、消失による痛みによって成長するといったような王道のジュブナイル漫画になるだろう。(実際、踊るミシンの原型となったと思われるチョコレートスフィンクス考ではそのような青春の話となっている)

しかし、冒頭のシーンが挿入されることでこの漫画はそういった青春のワンシーンの端では鳥男が空を飛んでいるシーンがあり、それが同列として存在することでとても不吉な予感を内在した世界が立ち上がってくる。

鳥男は誰なのか?

 

 

 -飛びまわる鳥男 編-

夢や回想シーンと現実を同列に描いた作品で思い浮かぶものとして、デビットリンチのマルホランドドライブ(その原型ともいえるロストハイウエイも)が上げられる。

マルホランドドライブでは前半に描かれるシーンが後半の世界で見ている夢となるように設定されている が、そのトリックは一見しただけではわかりにくい。それは、その夢とされるシーンがあたかも現実の話のように演出され、延々と続けられて(前半1時間以上)いき、踊るミシンと同じくこれは夢(回想)であるというような説明もなされない(実際にはシーンの節々で夢の暗示がなされているが初見で見て気づけるようなものではない)。

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そして、観客が現実世界と思い込んでいるシーンで夢でしかありえないようなことが起こる。しかし、観客にはそれが夢であるという説明(演出)がなされていないので、“ああこういう事が起こる世界なんだ”という思い込みによって、奇妙な、しかしリアリティのある世界が出来上がってくるのだ。

私はこの奇妙なリアリティというものを踊るミシンの中にも強く感じてしまう。
それは、鳥男という存在そのものだけではなく、押し入れの中のブラックホール”THE END”の話、海岸で踊る麗花に投影される鳥の影、屋上で殺された同級生の話、など漫画の中で語られる(あるいは描写される)いくつものシーンでそれを感じることができる。

これらの現実世界ではありえないような描写は、しかし漫画内でリアリティを持って読み取れられる。それはやはり、冒頭に置かれた鳥男のシーンの効果が効いているように思う。あのシーンから作品世界へ入る読者は、マルホランドドライブと同じように作品内のリアリティに引っ張られ、いくつもの奇妙なシーンを受け入れていく。

ここでその奇妙なシーンたちをよく見比べてみると、鳥男に関するシーン以外はすべて漫画内の誰かの回想となっている事に気がつく。(例えば、THE ENDは田村の回想として麗花に語られる)逆に、鳥男に関するシーンについては冒頭でも言及した通り、漫画内の現実の地続きとして演出される。つまり、冒頭の鳥男のシーンによって他の奇妙なシーンにリアリティが生じ、奇妙なシーンとなってはいるが、それらのシーンと鳥男は明らかに質が違うように思う。

それでは、鳥男は誰の夢(回想)なのだろうか?

麗花のバレエシーンを考えてみる。このシーンではラストカットで麗花のダンスに合わせて巨大な鳥のような翼をもった影がバックに映る。(他のシーンで描かれる鳥男には翼はなく、麗花の影と一致せず一貫性がない。)ここで注目したいのが、この影が映るシーンの田村のカットである。彼はこの鳥の影を見ておらず。麗花のダンスすら見ていない。

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つまりこの巨大な鳥の影を認知できる人物は漫画内にはおらず、読者のみがそれを認知できるのだ。

-7月の海岸 編-

“自殺のための5教程 5つマスターすれば楽に死ねます”
とは、踊るミシンの冒頭扉絵に書かれた副題である。(復刊されたバージョンでは削除されている)

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この副題について作品内で触れられることは無く、一見してなんのことだかわからない。
大体において、小説につく副題、冒頭の引用文、楽曲におけるRemix verのタイトルなどは作者の遊び要素が強く、裏事情を知らない人には何を意味するのかわからないものが多い。この踊るミシンにつけられた“自殺のための5教程”という副題もそういう意味で読み飛ばしてしまう人もいたと思うが(自分がそうだった)、それにしては印象に残る副題である。

また、踊るミシンには本編の前にブルース・ミュージシャンのエルモアジェームスに関する漫画(君がいなくなったら、僕はダスト・マイブルーム)が挿入されている。
このエルモアジェームスに関する漫画について作者の伊藤重夫氏は、本当は本編の途中に挿入するつもりだったとコメントしており、この二つの漫画を合わせて踊るミシンという作品ととらえていたようだ。

こういったことを考えると、“自殺のための5教程~”というのは副題ではなく、漫画のタイトルそのものなのではないかと思える。つまり、”エルモアジェームスに関する漫画“+“自殺のための5教程”のふたつの作品を収録した漫画を”踊るミシン“と名付けたのではないかと。(短編小説集に別のタイトルをつけるような)

そういう視点でもう一度この“自殺のための5教程”というタイトルと本編のかかわりについて考えてみる。タイトル通りに考えていくと、教程とは”誰かに何かを教えるための、教訓話“といったような意味合いで、その前に自殺のためのという文字にある通り、5つの自殺に関する話を通して何かを伝えるといった意味にとれる。


実際、漫画の中でもいくつかの死が描写されている。(以下に記述)
① 田村の同級生(委員長)の死 :殺人
② 田村が住む借家の大家の死 :病死
③ 田村のバンド仲間(サングラス)の死 :事故死
④ 麗花の死 :事故死?
⑤ 麗花の部活の先輩の死?(昔の恋人?):麗花による殺人?


5番目を?としたのは、明確な死の描写がないためだが、おそらくこの5つが死に関する話なのではないかと思う。しかし、これら5つの死はすべて自殺ではなく、殺人事件や病死、事故死などといったものとして語られていが、タイトルはあくまで自殺の“ための”であり、自殺に“関する”ではないため、これらの死の物語を通して自分の殺し方を考えるといった意味合いなのだと思う。

また、5番目の麗花の先輩についての話はほとんど語られることはないが、ダンスパーティの最後の描写で海岸の向こうに横たわる死体のような描写があり、(麗花によって?)殺されているような演出に受け取れる。

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他に、麗花が自殺を試みるシーンがあるが(やっぱやめたとスッパリあきらめるが)この作品の5つの死はこういった自発的な自殺ではなく、突然にやってくる(自分の意志とは違う)死によって結末を迎えている。

生きている限り死亡率100%だと、ある漫画のセリフにもあったが、
自ら死を選ばずともそういった瞬間は訪れる。この漫画はそういった瞬間に対する様々な予感で満ちており、その刹那性/一過性にある種の青春を重ね合わせることもできる。

(あるいはこの漫画の登場人物たちはその行動やセリフから自らの死をすでに自覚しているようにも見える) 
そうした人たちは7月の海岸に取り残され、田村のみが次の季節へ移っていく。

-つづく

夜と忘却の機械と音楽とサンタクロース

レヴィ=ストロースの著作を読みかえしている。

サンタクロースに関する論文を読んだことがなかったが中沢新一の訳で出ていたので購入。

 

構造主義は字面やwikiの流し読みだと、単なる文化の共通項の洗い出しのように見えてしまうがこの論文を読むとそのラディカルさがわかる。

文明化された思考を野生へと回帰、もっと言うと退行まで持っていこうとする姿勢。

その簡潔な例を読むことができた。

 

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夜の音楽。

夜に付随する世界で、光のない世界で、俗物を、商業主義を、見栄を、威厳を発揮することは難しい。そこにあるのは地面と振動と触覚から伝わる体温とそして構造があるだけ。

 

最先端が最高峰とする文明の底に眠る構造が夜の闇によって這い上がってくる感覚は自分の中にもある。

若さと、その反逆性は否定すべきではないがその向こうにある自滅と、過去へのノスタルジーへといたる破滅を隠すべきではない。それは大人が教えることでもある。

 

先週、Rafael Martiniの来日ライブを見た。

オーケストラで録音されていた音源をデュオで演奏していて、その構造の力強さにとても感動した。Rafael Martiniからはブルックリンインディー(特にアニマルコレクティヴ)とその先のフィリップグラスに対する意識を強く感じる。

どちらも反復性の中からその組み合わせによって胎動(グルーヴ)を作り出している音楽だ。

 

ただ、アニマルコレクティヴには仮初めのような野生しかないが(そこが魅力でもあるし、アメリカ的でもある)、Rafael Martiniの音楽を聴くと本物の森の暗闇を思い出す。

アニマルコレクティヴの構造の中にあったブラジル的野生が彼の音楽の中で蘇っているように感じる。

 

音楽のための音楽というものに惹かれてしまうし、自分が作ってきたものも無意識的にそういう歌詞が多い。

”回線は一生 眠りながら ダンスパーティーの夢を見ている"

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badbadnotgoodのTalkMemoryはとても良いアルバムで去年からよく聞いている。

そして(なにかの企画なのかもしれないが)あのアルバムの曲を他のバンド/ユニットがカバーしている動画がたくさんあってどれも素晴らしい。(というかぶっちゃけ本人たちのライブ演奏の方がショボい。。)

 

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録音物としての反・反復性ということを考えていて、

録音されたものをそのままライブで演奏するとして、

録音と瓜二つのように演奏することはできてしまうが

むしろその構造だけを残して全く別のものに変えられてしまうような(それほど強い構造をもっているような)曲に惹かれる。

 

エリックドルフィー

When music is over, it’s gone in the air. You can never capture it again.

と言っていたように、たとえ録音物だとしてもその反復性は人生のある時期において変化していく。(付随ではない、構造は変わらず付け加えられずに捉え方が変わっていく)

 

いま、自分は夜の音楽というテーマで曲を書こうと思っている。

 

むき出しの野生の状態まで戻した音楽をバンドで演奏してみたいと思っている。

 

 

 

 

J・Gバラードの砂漠の世界/ J・Lゴダールの並行宇宙の音楽

MTRという機械がある。マルチトラックレコーダー。トラック一つに音源を一つ記録できる。それを同時に再生すると一つの音楽となる。

音楽の録音の歴史の始まりは、当然ながら同時録音だった。マルチではなく一つのトラックに全ての音が記録される。

マルチトラックにそれぞれ違うBPMで録音した音源を同時に再生してみたことがある。当然だが混沌とした音源になるが、そこに一つの周期性のあるクリックを入れると法則性が生まれた。つまり、ここからここまでが1小節であるという明確な基準ができ、混沌としていた音源が一つの作品のように錯覚された。

1980年代。人間が感知できるのは32ビートまでだと思われていた。今ではその3倍の96ビートまで使用されている。

参考:細野晴臣-ボディ・スナッチャー

  https://www.youtube.com/watch?v=4VJaocRlnoI

違う時間にとられた音源たちを同時に存在させる装置がマルチトラックレコーダーであるなら、それを96分割する我々の頭はレイトレーシングが向上した高解像度テレビのようなものなのだろうか。

96分割を正確に行うこと、少しブレを作ることに大きな差はあるのかと最近考えている。ここまで細分化されたビートにブレを生じさせる意味はあるのか。そこにグルーヴは生まれるのか。

96分割のうち、どの音を鳴らすかでリズムは変わる。それは3拍子にも6/8拍子にも11/8拍子にもなりうる。

そう考えると1小節という概念が狭苦しいものに思えてきた。ここ数年によく聴いていた音楽たちには小節の概念が曖昧になっているという共通点があることにはすでに気がついていて、自分でもそういった音楽を作ることに一番の興味がある。

ネットで会話をすると、今まで曖昧なままにされていた同時に存在するということの難しさに気がつく。電話で話している相手は光の速度ではないので微細なズレの中で会話をする。少し前に存在していた相手の声を聞き、少し先の未来に存在する相手に向けて話しかける。

5月の2週間、知り合いと誰とも会わない期間があった。それはJ・Gバラードの小説に出てくる人のいない砂漠の世界のようだった。

私がギターを鳴らしたとして、目の前で同時にそれを聞き取り、楽器で反応を返してくれることのない世界。

マルチトラックレコーダーはトラック一つに音源を一つ記録できる機械である。それは同時ではない世界を同時に存在させる装置ということだ。(ジャン=リュック・ゴダールは過去の映画からカットアップした映像を繋げて見せた。それは同時ではないが単一世界のように見える)

参考:ジャン=リュック・ゴダール-時間の闇の中で

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砂漠の世界なのにベランダからは人が歩いているのが見える。それは不思議な感覚で、まだ同時に存在できる人たちがいるということを思い出させる。

時間の闇の中で流れる最後のテロップには

「夕暮れ」と彼は言う。
 「夕暮れ」と彼女は言う。
 「夕暮れ」と彼らは言う。

と書かれている。

ノスタルジア、ウルトラ

タルコフスキーの映画術のエッセイが文庫で出たので購入。かなり込み入った、しかし真摯に映画を撮ろうとしている様が書かれていて少し感動する。

 

同じく文庫化されていたガルシア=マルケスの中短編を読んだらやたら良くて、諸々読み返している。ガルシアマルケスの小説への誤解というかミスリードについては思う所はあるが、ああいったマジックリアリズムの紹介のされ方をするとしょうがないかなとも感じる。

 

この人の小説は語られる状況を少し俯瞰する場所に視点が設定されている。

どれだけ美しく、グロテスクで、非現実的なシーンでもその裏に、ある種の真実(実際に起こったこと)と異化された寓意が両立している。

 

主人公(というか物語の中心)に主観視点がいかないのもそういった俯瞰の視点を強めているように思う。

ガルシア=マルケスが小説家になる前はジャーナリストであったという事も関係があるのだろうか。あくまで真実に基づいたフィクションというところに、この人のインスピレーションの源があるように思う。

だから、マジックとリアリズムは並列関係ではなく、マジックに内包されたリアリズムをあくまで傍観者として見つめること。それ自体が小説であるといったような二重の観察の視点を感じる。(話の中で傍観者が良く出てくるのもうなずける。写真家、小説家、新聞記者)

 

この間、劇場で見て以来に映画版の海街diaryを見た。

演技等々突っ込めるところは多いが原作の人間関係の部分をより時間という流れの中に落とし込むことで、見えない繋がりの中にある生活が浮かび上がってくるのがとても良い。

いつの間にか季節が移り替わって、人間も入れ替わって、ただそこにある(かつてあった)関係や感覚だけが残っていく(やがて忘れられていく)。一歩間違えるとスローライフ映画になりかねない題材をある家族の人生の一時をとらえたような映画にできているのはすごい。

 

タルコフスキーが映画術として、商業的なことより、自分の真実をどうやって映画として記録するかに固執したように、ある種の現実として(パラレルな世界として)映画を小説を作るという感覚はそれぞれ共通しているように思った。

西荻窪にある架空の古い映画館では...

三年前に山梨の武川村という場所に行って川遊びをした。

武川村は写真家の深瀬昌久の別荘があった場所で、森山大道のエッセイの中にその別荘での夏の出来事が書かれたものがあって知った。

武川村に流れる釜無川で川遊びをした時、一緒に行った友達以外に人はおらず、

ちかくの小学校のだだっ広いグラウンドはまったく無音で夏の蝉の音だけが響いていた。

深瀬昌久の写真

東京にいると無音の時間というものがない。

真夜中に街を歩いていても誰かしらに会うことになる。

 

それが良いか悪いかはノスタルジーや個人の思い出と結びつくのでどーでも良い話なのだが、

あの田舎の無音の感覚は他に代用が効かないという意味でたまにたまらなく体感したくなる。

 

京都でやっているブライアンイーノ展に行きたいので

ついでに山梨→京都という旅行を考えている。(車だと遠いか?)

来月の梅雨が明けたあたりを狙って行きたい。

 

アンビエント音楽というものが未だにどういったものか完全に捕らえられているわけではないが(細野晴臣の観光音楽という概念は素晴らしいと思っている)、東京で暮らしている中であの無音の感覚を思い出すことができる少ないエレメントの一つだと思う。

 

音楽を聴いて無音を感じるというのも変な話だが、

そもそも田舎でも音はしている。ただし、それは人間の意志の介在しない音で

街に潜む見えない川や、蝉の音、山を越える電車の音などが規則性なく(あるいは構造主義的に見えない規則にならって)混ざり合い鳴っている。

そういった音の中に身を置くとなぜが無音の感覚に至る。

 

昨日も今日も明日もなくなって、ただ、その場所、と自分、と、季節がある感じ。

 

三好銀という漫画家がいた。

昔、国分寺北口の駅前にあった本屋でたまたま表紙に惹かれて

十数年ぶりに復活した三好銀の新作を買った。

 

三好銀の漫画も音がしない。

正確には人間のざわざわが聞こえない。

 

書き割りのような背景と、変わったパースの絵。

そしてどこにも到達せずにこんがらがったまま終わる話。

 

独白が多いからなのか、その絵の力なのかわからないが

三好銀の漫画を読んでいると、すでに終わってしまった話の追体験をしているような感覚になる。

 

だから、記憶の中で膜が張ったように音が遮断され、物語が流れ込んでくる。

何も起こらないけど何かがどこかで起こってしまった感じ。

 

映画館で映画を観る人を映写室のガラス越しに見ているような

幸せな瞬間があの人の漫画にはある。

 

 

 

outward bound

エリックドルフィー で一番好きなアルバムはoutward bound(邦題:惑星)。

郊外へ向かう道がいつの間にか宇宙へとつながる。

 

引越しの多い人生だが、浅草近くのいまのマンションがこれまでで一番長く住んだ場所になってしまっていて最近すごく停滞感を感じる。部屋も物で溢れていて住みづらい。

 

ゲーム会社での仕事は楽しいがいつまでもこうしていることはできないなと漠然と感じている。

outward boundはエリックドルフィー の最初のリーダーアルバムだが、そのタイトルは船出という意味合いなのだろうか。それにしてはジャケの月面(火星?)に佇むドルフィーの横顔は意味深だ。

郊外、というよりかその先のフロンティアあたりで過ごした子供時代が自分を形作っていると感じることがよくある。東京で暮らすようになってからそういった感覚はほとんどなくなってしまったが、荒川でキャッチボールをしている瞬間や、夜の人のいない浅草を散歩している時などにふと蘇って懐かしい気持ちになる。

ふと飛び出してしまいたくなる感覚が最近多くて、精神的にハイになってしまっている気がする。一つの場所にとどまりすぎて自分の居場所がどこなのかわからなくなるというのは寓話的すぎるだろうか。

引越しの多かった子供時代による影響かもしれないが、数年経つと、その関係性を全て無くしたくなる衝動にかられる。唯一続けてこられたのは音楽に関わることだけだ。

 

この間、ようやっと"子供はわかってあげない"の映画版を観た。

沖田修二でもこの映画化は無理があるだろうと思っていたが、原作との相性はさておき割と面白かった。特に音楽がよくて誰だろうと調べたらagraphの人だった。最近この人の音楽が気になっている。agraphより本名名義の方が好き。

映画は埼玉の加須市で撮影されたシーンもあるとのことで自分の好きな街の風景が見れて嬉しくなる。

最近、ジオゲッサーというGoogleストリートビューで知らない街の景色を見てどこかを当てるというゲームを隙間時間によくやっている。

 

初めて見る行ったことのない場所でも、見た瞬間に良いなと思ったり、この場所は自分はあまり好きではないなと感じることがあり不思議だ。風景にも趣味趣向があり、自分にあった場所で暮らせるのは幸せだなと感じる。

沖縄の草むらの感じとか、東京の坂が多くて家が隙間なく埋まっている風景。

富山の山に囲まれて空が開けている感じ。

富山と山形と山梨が自分の心の中の風景とよくあっていることがわかった。

 

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実は去年から転職を考えていて、何社から話も来ていたのだが

最終的には断っている。条件の面もあるが一番は住みたいと思える場所ではなかったというのが大きい。(今の場所もずっと住みたいというわけではないが)

ある程度まとまったお金もあるので富山に帰って何かやろうかなとも考えているが

まだ先はどうなるかわからない。

 

何れにせよ、今の自分と過去の自分と未来の自分が、それぞれ違った場所にいて

そのどれもが自分に適した場所であることはないだろう。

ただ、何かしらの瞬間にそれらの自分と邂逅できるような場所、精神状態でいたいものだと思う。完全にいま、ここだけという状態はつらい。

 

エリックドルフィー のourward boundを聴いている。

初のリーダーアルバムで一曲目にG.Wを持ってくるドルフィーはすごい。

船出というよりは地球脱出だ。

一度放たれた音は空気中に漂ってやがて消えていく。それは録音された音源でも同じことで。

その時、聴いた瞬間、場所によって意味合いが異なるように感じる。

初めてこのアルバムを聴いた時のぶっ飛ばされた感覚と

今の現状と照らし合わせた上で聴く時とはその意味が完全にことなっている。

 

今は宇宙から浅草を見ている感覚だ。

 

いずれにせよ秋までには色々と結論を出したい。