パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

TV TELEPHONE TAPERECORDER

次の場所を探すために色々事務作業。

用事で久々にソラマチに行く。少し時間ができたので本屋に寄ったら柴崎友香氏の大阪についてのエッセイやジャックロンドン(訳が川本三郎氏だ)の自伝が売っていたので購入。どちらも面白い。

金曜日までに色々終わらせたので休日はいい感じに過ごせそうと思ったが、バンドメンバーが風邪で練習に来れず。ベースと二人で和音のアレンジを固める。個別に集まるとそれはそれで結構発見があったりするので良い。それぞれの和音に対するスタンスを確かめられた。

練習はずっと神保町のスタジオを気に入って使っているが喫煙所もあるし、そこからの景色がなんだか好きだ。神保町は人もそこまで多くないし、本もレコードも楽器屋もあってなんだかんだで一番行く街な気がする。

 

神保町のスタジオから見た景色

色々片付いたので日曜日は髪を切って本を読んで過ごす。

平日に届いていた大横山飴氏の新しい漫画を再読。ホン・サンスだなと思いつつも漫画でこういったことができるのかという単純な驚きがあった。例えば白山宣之の現代物の漫画を小津安二郎といってしまうのは簡単だが、それは小津安二郎の撮る日本家屋だったり日本的な家族構成に対して反応してしまって小津映画の特異点を見逃しているのと同じだ。ホン・サンスが同じカットで同じ人物で違う時空を描くのは映画的編集を逆手に取った多重露光する世界自体の自我のようなものを捕らえるためだと思うが、大横山飴の花の在りかは同じ話だが、カットの位置が微妙に変わっていてそのシーンの自我が異なっている(ように感じる)その点で、世界の見る夢ではなく特定の誰かの視点が画面に内在していて、そこにホン・サンスではない何かを感じた。(これがどこに至るのかはまだわからない)

 

侯孝賢のナイルの娘を観返す。前見たときは何も感じなかったが、あらためてみると"海がきこえる"みたいな映画だなと思った。主人公が既に終わってしまった出来事を回想するという形はとくに80~90年代前半までの小説や映画でよく見かけるやり方で、例えば村上春樹風の歌を聴けノルウェイの森がまさにそうだし海がきこえるもラストの吉祥寺駅のシーンに至るまでの話を回想する映画だ。

終わってしまった出来事を思い出すということは、思い出している誰かが(主に物語の語り部だろう)現在に生きているということで、ある種の客観性を持ってその時の出来事を振り返る。振り返るということはそこには時代性があって、現在との乖離があって、かつてそこにいた自分、住んでいた街は今もどこかにはあって生きているのだが、その時間という距離によって直線的に乖離している。触れられないという感覚を肉体性でなく記憶の中に再現するというやり方はたしかに90年代の感覚なのかもしれない。自分はこういう構造の話にある種無条件に反応してしまうので(あまりいいことではないのかもしれない)ノスタルジーに溺れないようにしたいとは思うのだが、そもそも過去を振り返る=ノスタルジーに浸る、が100%そうであるとは思わない。過去が現代と乖離するように未来も現代から乖離しており、その距離はその人が死ぬまで人生という時間において見た時にはその乖離の差は同じく無限小だ。ゼロ年代になって柴崎友香氏が書いた小説はそのノスタルジーさという感覚を全く無くして過去と現代と未来の話を書いたと思っている。過去の話や登場人物や距離が、現代と全く同じものとして立ち現れてすっと消えていく感じは、確かに生きていて自分でもふと感知することがある感覚だ。

防風林の揺れる様を見ると自分は高校生の夏休みを思い出す。そこに思い出はない。ただ木々が揺れていて、自分と防風林の間には茂った稲穂の田んぼが広がっていた。自転車から見た景色だ。おそらくくるりサニーデイ・サービスを聞いていただろう。その日から現在までどれくらいの時間があいたのかは知らないがあの時の気持ちはまだ残っていて薄れることはない(これからもないと思う)。あの瞬間は自分の時間の中に偏在しているので、例えば侯孝賢の映画でよくインサートされる木々のシーンでフラッシュバックするし、新幹線の車窓から見る自転車通学途中の学生を見かけた時に切り返しの視点としてとらえられる。

ゼロ年代に出てきたエレクトロニカによって音楽の時間というものの切り刻み方が格段に細かくなったと思う。それまではスタジオ録音されたものを編集するという点で、ある日、ある時間に録音された音によって(例えそれが別の時間のトラックをミックスするにしても)音源というものは記録という側面が強かったのに対してエレクトロニカはその録音された音はコンマ何秒の世界まで切り刻まれて、PC上の架空の時間の中にノンリニア編集される。だから、そこにある種の時代性は薄められてよりパーソナルな世界が立ち上がる。それが良いか悪いかは人それぞれだが、あの時あの瞬間という感覚は薄くなるのは事実だろう。(それでもエレクトロニカゼロ年代と結びついた音楽であり、当時聞いていたという個人の思い出として時代性を獲得するルートもある。ただそれは音楽自身が持つ特性ではない)

 

現代では、

TVは

ある日撮影され、録音した映像を編集し放映されるが

その出力先は受け取る側に一任され、テレビだけでなくネット上の配信に拡散される。

 

TELEPHONEは

場所の限定性を失って、いつでもどこでもどの時間でも繋がることができるようになった。電話先に出る人物もそのセキュリティによって限定され、我々は発した言葉が世界に完全に同時に流れていると錯覚するが、それはいまだに光の速さを越えることができないため、ゼロコンマ何秒ずれて認知される。

TAPERECODERは

磁気テープは失われ、メモリに保存される情報はその時その瞬間の時刻をファイルのプロパティ情報として記録する。しかしそれはPC自体の記憶でなく、ユーザ側の記録でもない。ただそこにデータが現れた瞬間の記録であってそこに時代も場所も空気も文字としてしか記録されない。

 

ただ、Googlemapのタイムライン機能を見返す時におちいるなんだかよくわからないが過去に自分が歩いた街の情報を認知する感覚は、自分という記憶装置を通すことでそういった情報を自分の過去とをつなげることはできる。そのインプットとアウトプットの装置はこれから先段々と減って、いま/ここ、だけがあれば良いという世界になりつつあるようにも思うが、決して消え去ることはないだろう。図書館にかつてあった貸し出しカードがPC上の情報に置き換わったことでその情報の及ぶ範囲が拡大したように、思い出す力さえあればそれを生かす道はある。

 

ヴィーナス・プラスX

5日間ほど海外にいた。

飛行機の中でゴジラ-1.0とベイビー・ドライバーを見る。

ゴジラは普通に面白かったけどまあ普通。

 

海外も同じところに行くと飽きるなと感じる。仕事柄歓迎される側なので何も考えなくていいのは楽だが、日本に帰ってきた時には結構疲れがきた。移動自体が疲れる。

 

海外中ずっと夏目漱石の行人を読んでいた。これは傑作。虞美人草で社会に帰属した登場人物が自然へと帰るための準備。それが次の"こころ"につながるとおもうと怖い。

二郎の視点で描かれる話は、兄の心のわからなさという配置に置換されてそれだけで効果的な語り方と思う。嫂と二郎の関係性も(元から知り合いだったような記述がある)深くは追われず、ただ人のわからなさというところに執着する。

最初の章の病院のくだりや、美人な看護婦との距離感。美しい流れの文章によってうまく回避される結句点はその浮遊感を持って物語を進行させている。それはもはや物語の換骨奪胎というところまで来ているのかもしれないし、新聞連載という性質上、先が読めない中で紡がれた話のわかなさなのかもしれない。

 

来週終わると色々決まるので準備をする。近所の公園も草の匂いが溢れていてGWっぽいテンションになっていく。

omni sight seeing

GWに諏訪大社にいくのでチケットを取ったり、色々調べたりする。折口信夫中沢新一の本での知識はあるが松本や安曇野に行く際の通過点に過ぎなかった場所なのですごく楽しみ。帰りは甲府にも寄れたらなと考える。

田山花袋田舎教師を読了。とても良い。自分のよく行く、加須~羽生あたりの景色が美しく描かれる。内容も割と自分にはくらってしまうものなのでちょっとセンチメンタルな気分になる。天気が良いので公園で全部読み切ったが桜が咲いていたり、新入社員が声出しをしていたりと4月を感じる。田山花袋は一旦置いておいて夏目漱石の行人にもどる。まだ読み始めだが弟の視点、大阪からはじまる話で"それから"とは違うのだなと感じる。導入部で既に面白い。

 

先週からの流れで侯孝賢の童年往事を観る。冷静なカメラの視点が一貫していてとても良い。木々の揺れる様、ズームしないカメラによって映される生活が、自分の全く知らない国の人々の話なのに共感を覚える。エリックロメールを少し感じたが、ロメールに比べて明らかに冷静に人物を捉えていて、静かに陶酔した。

DVDが出ていたエドワードヤンの恋愛時代も観る。一昨年の東京国際映画祭の記念上映から数えて3回目くらいか。英語タイトルの章でいきなり核心に変わる感じが良い。形にハマらず自分のやりたいようにやれということだろう。三宅唱きみの鳥はうたえるのラストはこれの引用なのかなとちょっと思った。結果は真逆だけど。

 

エドワードヤンはここ数年で再発しているので侯孝賢もDVD出してほしいな。

 

土日は田山花袋に影響されて埼玉にゆく。東武動物公園駅から幸手市まで歩くと巨大なビオトープと隣接する大きな公園がある。ビオトープを歩くとカモやキジ見かけたり、すみれや名前の知らない黄色い野花の匂いがとても春を感じて良かった。まだ田植えは少し先だが自分はやはり田んぼや川辺、水辺の匂いが好きなんだなと改めて思う。三鷹~国分寺あたりの高層ビルが減って郊外感が出る感じや、佐倉市近辺の林と住宅地が並列して立つ感じも好きだしよく行くが一番心が高まるのはやはり田んぼがある景色だな。

実は去年から公務員の内定を2つもらえたりしたりしたのだが、どちらも街として自分の好みでなかったので最終的には行かなかった。終の住処は田んぼの近くがいいなと切に思う。

 

幸手ビオトープから



ヨコハマ買い出し紀行の葉山とかも行ってみたいのだが(森山大道の街でもあるし)Googlemapで見ると畑と海の風景なので自分の原風景とは異なって結局いかないままだ。昔、鎌倉に行った時は結構面白かったのでいつかは行きたい。

 

来週から4日間くらい海外に行くので色々準備する。海外で楽器を買うにはどうすればいいのだろう。

フロントライン

映画を観るモードになっている。

クーリンチェ少年殺人事件、侯孝賢の80年代のものを中心に見る。クーリンチェは久々だがやっぱり映画館で見たいなと思った。DVDで観るとディスクが別れていて途中で集中が途切れてしまった。

4月に恋愛時代のDVDもでるので楽しみ。

金曜に休暇を取ってシネマヴェーラに行こうとしたが嵐だったのでやめる。家でフンクイの少年を観る。傑作。相米慎二北野武の間といった感じ。印象的なカットをただとるのでなく物語の中できちんと推移させているのが良い。パッケージにも使われている波をバックに踊るシーンもただそういうカットというのでなく少女のまえでふざけているという物語の必然があって生まれたシーンで、作為性のない視点で撮られている。というか侯孝賢の映画は本当に監督の気配がしない。自伝的と言われる80年代の数本もカメラの位置やカットの切り方を見ても誰でもないその町の視点として映画が成り立っているのが本当に素晴らしいと思う。

 

休日は気候が良くて公園に出てずっと読書をしていた。柄谷行人夏目漱石論、田山花袋田舎教師遠野物語の口語訳版などを読む。先週、乗代雄介の旅する練習の文庫が出たので買って読んでいたが泣くのを忍耐しながら読むくらい感動する。この本を読むのは何回目だろう。まだ単行本になる前に群像を買ったのを覚えている。自分がしたいことを捉えてそれに合わせて人生を考えること、というのは自分も小さい頃からずっとしてきたことなのですごくクラってしまう。"体を乾かさないカワウがいるか?"という問いは比喩ではなく直接的な意味で自分に届く。何かを成すのではなく、そうあり続けようと意識して前進すること。旅するために準備をすること、準備をしながら旅すること。そうしていつか暗闇になった時に初めて旅は完結する。ということだと思う。だからアビは亜美でカワウと一緒に水面で羽を広げて、最後は飛び立つのだ。

 

柄谷行人夏目漱石論が面白くて、夏目漱石に感じていたうまさと違和感の訳がすこしわかったような気がした。虞美人草のラストあたりの展開のあっけなさは社会から自然へ取り込まれたようにも見えるが、その逆でもある。女が死ぬという展開は社会が死んだのか自然が死んだのか。それはけっこう読み手による気がする。

坑夫を読んだときはカフカ的だと思ったし、夢十夜の暗さを特異なものとして受け止めていたがよくよくかんがえるとほとんどの作品に通奏低音としてその暗さは内在していていつの間にか流転する人だったはずの主人公たちが闇(自然)に取り込まれていく。そう考えると門のラストの展開も納得できるように思う。

三四郎の中にある"stray sheep"のシーンは文章の力でもって印象的なシーンとなっているが、その先の展開を考えると迷っているのは社会の方ではないだろうか。とも思う。

 

あまりに天気が良いので電車で荒川へ。なぜかパーカッションとサックスの音が聞こえる河原で田山花袋田舎教師を読んでいた。黒沢清大いなる幻影かと思った。

 

家に帰ってコタツと掛け布団を片付ける。

 

 

 

緑の光線

京都の某会社と色々話すがまとまらず。移るにしても来年になりそうだ。

でも色々と刺激を受けた。まだ色々やれそうだという可能性が見えた。あとやらんといかんことも多い。京都は左京区の下あたりが住みやすそうだな。家賃高いだろうけど。Rei Harakami氏の長屋があったのもあの辺だった気がする。

京都の名もない公園

水曜日は祝日でバンド練。ベースがお休みだったのでドラムと2人で練習。意外と2人練も身になるので誰かが休みでもスタジオには集まるようにしている。曲のアレンジと気になっていたところを合わせる。かなり良くなる。バンドは継続が大事というかそれ以外ないなと思う。呼吸の合わせ方は一ヶ月くらいですぐに忘れるので。

帰りに誘われてドラムの家でご飯をいただく。子供と奥さんにも久々に会って話したり。知り合いにオススメされた1歳用のおもちゃをプレゼントする。すごい気に入っていてよかった。自分も子供の頃にいた、毎回プレゼントをくれる謎の人になってきている気がする。

 

夏目漱石彼岸過迄を読了。すごく面白いが、これなんの話だっけとなる。新聞連載で読んでた人は主人公が誰だかわかるのだろうかと思ったり。松本の話の章で最初の数行は敬太郎視点で読んでいたのでこんがらがった。夏目漱石もその辺を危惧して最後に結末の章を書いている気もするが、文章の流れがスムーズなので読めてしまうのがすごい。ここから行人で"こころ"になるのかと思うと市蔵の1人の逃避行も少し怖い予感がした。

 

高校の教科書で夏目漱石の"こころ"をやっていたとき、国語の授業で時間が限られているのである章だけを読む形になった。詳しくは覚えていないが”先生”と”K”の過去のフラッシュバックの話でKの自殺までは書かれていなかった記憶がある。というのも、あるシーンを読んで、授業が終わった後に友達とKは絶対自殺するよねと話したらお前の考えは暗すぎると言われたことを覚えているからだ。自分としては明らかにフリとして死への準備をしているKの描写があったのでいったまでで、気になって図書館でこころを借りて読んで、やっぱりそうじゃんとおもったのを覚えている。別にその友達を腐すつもりは全くないが、その時に、結果が提示されないと物語の意図が伝わらない可能性もあるのだなと思ったことを強く記憶している。その頃、自分は山下敦弘リンダリンダリンダリアリズムの宿に感激していた頃で、起承転結の結のシーンを撮らずに別のシーンに移るやり方に痺れていたので、取りこぼしてしまう人は勿体無いなと思ったし自分でもまだ気づいていない取りこぼしてしまった映画、演出があるのだろうなとも思った。

 

蓮實重彦のショットとは何か実践編が届いたので読み進める。とても面白い。ブレッソンラルジャンとかまだ見てなかったのでDVDを買う。ロメールの章が良くてクレールの膝や友だちの恋人を見たりする。

 

シネマヴェーラで特集もしているので見に行こうかと思ったが天気が不安定なので家でDVDですます。ヴェンダースのデビュー作は見たことないので劇場で見たいなーと思う。

 

休日はアンリアルエンジン の使い方を探ったりして遊ぶ。去年少し話題になっていた自分の地元の越中大門駅の映像もアンリアルエンジン で作っていてちょっとやって見たくなった次第。せっかくゲーム会社にいるのだし一本何か作るのもいいなと思ったり。

 

www.youtube.com

 

春っぽい気候で散歩が楽しい。読書もできるだけ外でしたい。

ショート・ピース

用事があって京都へ行く。平日だけど新幹線は海外の観光客であふれていた。京都駅はあんまり変わってなくてポルタの謎の構造に毎回惑わされる。多分新幹線を降りてからそのままポルタに入るコースがあると思うのだが、わからないので毎回京都タワーが見える北口に出てポルタの地上エレベーターから降りる形になる。

 

烏丸線に乗って十条駅へ。用事の前に時間があったので近くの公園で坂本龍一のエッセイを読む。近所のおじいさんたちがソフトボールをしていた。

 

坂本龍一YMOの曲とそのあたりの時代のソロ、あとはカクトウギセッションあたりはよく聞くがそれ以降はあまりおっていない。本を読んで見て理論から入る人がYMOの二人に混じることで直感で何かを捉える面白さに目覚めて行くのがわかって良かった。(それでも坂本龍一の曲を聴くと理論的だなーとは思うが。)それが悪いわけではないが自分はなんだかよくわからないものに惹かれるので説明できてしまうものはあまり長く聞けない。坂本龍一も多分同じような苦悩をしていてRiot in logosあたりの曲は理論を突破しようとしているのもわかる。(B-2Unit自体がそういうコンセプトに感じるし)ただ、理論を突破しようとしていることが聴いている側に”わかる”ことでそれは二次元的な領域に収まってしまう。つまり、理論を突破した曲があるのではなく、そういった曲を目指して似せて書いた曲を聴いている感じ。だから、額縁に入って題名がついた状態で絵画のように提示され、作曲者によってこれは理論の外で書いたものですと説明されているように受け取ってしまうので、自分はそこに冷めているのだと思う。

Paradise Lostとかバレエメカニックとかめちゃくちゃかっこいいと思うが、作曲者が何をしようとしているかがすぐにわかってしまうので魔法はない。

 

例えばスライストーンを聴くといまだになんでこんなアレンジでこんなメロディーでしかもリズムボックスを手打ちで何重にも重ねて、凄まじい歌詞をつけた曲をかけるのだろうと思う。全くの謎のままでしかもそれがとても高い完成度でなんだかわからない状態で提示されている。

 

頭脳と手の媒介者は心でなければならない”

メトロポリス

https://www.youtube.com/watch?v=_kwmhnpRwmY

京都での用事もうまくいったので何か食べて帰ろうかと考えるが

毎回京都で何を食べれるのが正解なのかわからず、結局駅弁をかって新幹線で食べる。

また数週間後に来ることになりそうなので京都タワー方面にある美味しい蕎麦屋に行きたい。あと古本屋も。でもバス混んでるし遠いんだよな。。

 

休日。髪を切ったついでに大佐倉へ行く。去年知って木々の揺れる様がすごく良くて、人もいないので気分転換になるかと思い再訪。春前なのでまだ木々に葉っぱはなかったが杉の木?などは生い茂っていて風に揺れる様がとても良い。駅に降りた瞬間に人間の音がせず鶯の声だけが響く。

大佐倉

城の跡地があるところなので、神社に寄ってからまたその辺を歩く。たまに人とすれ違ったりしたがほとんど一人の時間。隣は結構大きな佐倉駅なんだがこんなに人がいないのもすごい。近くに結構有名な心霊スポットもあるようなので夜の方が人が多いのかも??

 

結構歩き疲れて、ほんとは臼井のハードオフエフェクターを買うつもりだったが断念。そのまま帰宅。

 

帰宅して、坂本龍一のsmktと島田虎之介のダニーボーイを読む。

ダニーボーイ。傑作。びっくりした。

 

日曜はユーロスペースで映画を見ようと早起きする。散歩がてら公園で夏目漱石彼岸過迄を読む。とても面白い。ほんとはディックを再読しようかと思っていたのだが春先の良い天気に当てられて暗い話は読みたくなくなったのだ。

 

ユーロスペースに行くために電車に乗るがなんだか最近の映画館のゴタゴタがめんどくて神保町で降りる。

昼の神保町は久々。バンド練ではよく来るんだが、ディスクユニオンとか神保町の本屋はいかなくなったな。近所にいい本屋がありすぎるので。

そのまま水道橋まで歩いて楽器屋でエフェクターを物色。youtubeで激推しされてるエフェクターばかり売られているのが目につく。JHSペダルとか一個もなかった。こうなるとハードオフのランダム性の方が面白くなって来るなと思う。

 

帰宅して小津安二郎の宗方姉妹を見る。京都の風景と東京の風景。その距離感のなさは本当にすごい。頻繁に京都-東京を行き来するので今どこで話が進んでいるのかわからなくなる。大森とか言われて当時の地方の人はわかったのだろうか。話としては小津安二郎としては珍しくドラマチック。

 

シネマヴェーラで特集があるので蓮實重彦のショットとは何か 実践編を予約。

そして船はゆく

島田虎之介トロイメライと9月10日を購入。トロイメライで初期の完成は一度迎えてる感じ。解説にも出ていたヘルツォークのフィツカラルドを見かえそうと思ったがDVD見当たらず。

先週まで作っていた曲をいじる。エフェクターのセッティングを変えたらいい感じのリフができた。歪みの組み合わせで倍音が変わるのでギターだと結構セッティングに作曲が左右されるなと思った。

来週京都に行くのでチケット取ったり色々準備をする。4年ぶりくらいだろうか。

 

日影丈吉の傑作短編集を読み終わって、最初は折口信夫絶賛みたいな紹介だったのでもう少しアカデミックな小節なのかと思ったがガッツリ幻想文学でよかった。泥の汽車がとてもよかった。マジックリアリズムには行かずにあくまでフィクション内でとどめている感じが少し見るハウザー的というか夜の姉妹団を思い出した。

夏目漱石を年代順に読むやつは門が中途半端すぎて止まっている。というか古井由吉を知ってしまったのでそちらに興味が移ってしまっているがそろそろ彼岸過迄を読み出したい。

 

先週、バンドメンバーが書いた曲に歌詞をつけた時、フィクショナルな世界で歌詞を描く楽しさに気づいてしまった気がする。これまでは割と生活圏内で書いていたが、かなり飛躍しても内部に核を残しておけば自分のものとしてかけるということがわかった。そういえば最近DEEP RUMBAのセカンドを聴いていてライナーにキップハンラハンが書いた文を思い出す。ラテンを伝統音楽でなくポップス化すること。文化への憧れでなく、前進を求める姿勢をとること。根底を変えずに先へ進もうと試みること。そういった言葉を思い出した。

 

週末にフィツカラルドが見つかったので観る。コンラッドの闇の奥が原作と勘違いしていた。最初と最後のドラマパートは正直そこまでだが、川下りから山越えのところは本当に素晴らしい。闇を闇として、民族を民族として取れていて本当に人間が撮った映画なのかと思う。ジャングルで太鼓の音だけで先住民族が"そこ"にいることを演出してさらに画面は森も敵も映さずずっと主人公と船長のカットで続けていくシーンは震える。音とカットによって映画でしか見せれない何かに至っている。

先週からの流れで小津安二郎の早春も見る。傑作。

人の移動のあっけなさ。一瞬で東京を去るがその列車のカットによって未来が過去がつながっていく感じ。いつかあの線路に乗ってやってきていつかさっていく、そのストレンジャーさが小津安二郎の映画の切なさの根幹にある気がする。