パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

space echo chamber

月曜から日曜まで毎日どこかに出掛ける用事かあって結構疲れた。月曜日は品川からアクアラインで木更津へ。大雨の中の移動だった。眠らずに海を見ていたら割と数十分くらいでアクアラインを渡り切っていて結構短いんだなーと初めて気づいた。(これまで数回乗っているが全部寝るか本を読んでいた。山派なので海はあまり見て感動したりはしない)

 

水曜日に野暮用で初めて東急多摩川線に乗る。京都の嵐山線みたいな車両が良い。蒲田から乗ったがプラットホームもドイツのフランクフルト駅みたいな複数路線が終点に集結していて各ホームも分かれていなくて開放感があった(上野駅もそんな感じだが、人が多いので圧迫感が強い)車窓からの景色も東京っぽくなくていいなと思って引越し先の候補に考えたが、この辺は田園調布が近いからか一軒家が多くてあまりマンションの物件は見当たらなかった。

野暮用はうまくいって今のゲーム会社を辞めて転職するかどうかの判断をする必要が出てくる。結構悩む。

 

多摩川線で見つけた変な公園

土曜はバンド練。ファズファクトリーを買ったので激しめの曲で試したくてニルヴァーナを演奏する。かなりいい感じ。

 

 

帰りに近所の公園でドラムと少し話す。気候も良くて、人もいなくて昔のことを少し思い出した。この町に引っ越してきてかなり長いが、思い入れが強くなりすぎてきている。でもそれが果たして悪いことなのか、とも最近は思うようになった。

転職となると引越し前提になるので、そこも含めて色々考えないとなと思った。

Ask the Dust

ジョンファンテの塵に訊けを読み終わる。めちゃくちゃ面白くて、ブコウスキーの紹介文も良くて数年ぶりにアメリカ文学のモードになる。新緑の季節にアメリカ文学のヤケクソ感は合う。

侯孝賢の恋恋風塵や相米慎二の光る女を観る。相米慎二が撮る大人の話はなんだか漫画みたいであまり乗れないのだが、夜のプールとか印象的なシーンがいくつかあって結構良かった。改めて相米慎二はお引越しや台風クラブ、ションベンライダーなどの子供をとった映画が好きだなと思った。東京上空いらっしゃいませもDVDを見つけたので見るのが楽しみ。

来週バンド練でこの間買ったファズファクトリーの調整をする。かなりいい感じになったのでニルヴァーナのカバーを思いついてメンバーに提案。

 

坂本龍一の映画がやっているので観ようかと思ったがタイミングが合わず見送り。

 

長谷川白紙が書いた光景という曲があまりに良くてずっと聴いていた。リズムが曲を推進させる曲が好きなのでドンピシャでドラムを耳コピしたりする。

テン年代後半以降はどうやってスネアやハットを使わないかというテーマがどの音楽にもある気がしていて、そういう意味で一つの回答のように思った。例えばレイハラカミがやっていたディレイによる音符のポリリズムはシークエンスの打ち込みという技術によって成り立っているが、バンドでそれを再現することは難しい。刻む役割のスネアやハットをなくすことで聞く側にリズムの選択ができる状態になるが、そこでもギターやベースで隠れたリズムのニュアンスを出す必要はある。

色々と曲をかけそうなモードになって来て楽しい。

 

初星学園 「光景」Official Music Video (HATSUBOSHI GAKUEN - Koukei) - YouTube

うみべでぼくらはなかよしだったか

GWは11連休だったので金曜日に浅草でお土産を買って富山へ帰省。

前半は神通川を歩いたり、日本橋丸善で買っておいた本を読んだりして過ごす。来週発売の米澤穂信の小市民シリーズがなぜが本屋の店頭に売っていて購入。最後の冬季限定の話。結構良かったが割と予想がつく(これまでのシリーズでなんとなくほのめかされていた話)でやはり秋期限定がすごすぎたというのもあって少し肩透かしを食らう。というかまだ続けられそうだなと思ってしまったが一旦一区切りのようだ。

 

他は沢木耕太郎長野まゆみ岸田秀高山羽根子等々、本屋の店頭で適当に購入したものを読む。

 

ずっと天気が良かったので路面電車でレコ屋にいったり、古本屋を見たり。レコ屋で購入したDORI CAYMMIというギタリストの映画音楽のカバー集がとても良かった。少し90年代のリバーヴ感があるアレンジの曲があってギターのアルバムとしては珍しい質感で良い。シティポップ的ではなく90年代的なリバーヴ感って結構面白いと最近思っている。CSN&Yのセカンドもたまたま聞いていて同じことを思った。ちょっと前まではリバーヴかけとけばいいみたいな音響に聞こえてダサく思っていたのだが、自分でやろうとすると水浸しみたいな反響になるので結構難しい処理をしているのかもしれない。

www.youtube.com

 

本に飽きたら温泉に行ったり、電車で少し離れた街へ行って散歩したりする。

そしてまた帰り道にまた本を補充する。たまたまブックオフで見つけたボブグリーン、ピートハミルという作家のアメリカ、ニューヨークについての本をそれぞれ買う(多分同じ人が売ったのだと思う)どちらも80年代に書かれたものでビートニクの後の世界だ。話は少し感傷的すぎるがビートニクな感じを思い出して色々読みたくなる。

 

なので流れでジョン・ファンテの塵に訊けを購入。これがとても良い。

まだ途中だがほとんど散文的という文体に思考の流れをそのまま文章にしている感じがまさに自分の求めているビートニクといった感じだが、それだけでなくかなりクズな主人公の視点が支離滅裂に行ったり来たりする感じが清々しくて良い。

 

GW後半は諏訪大社を巡る旅行。神社はどこも美しく、人も少ないので快適だった。諏訪の旅館に泊まったのだが、温泉もよし食事もよしでまた来たくなった。調べると一人ビジネスプランで1万もあるらしいので東京からも近いし夏くらいに行こうかと思う。

諏訪二日目は上諏訪の街を散策する。猫が人馴れしていて撫でさせてくれたり、人での少ない街をいい天気の中歩いたりしてとても心地よく過ごす。上諏訪は駅から諏訪湖まで5分くらいでアクセスできるし温泉もたくさんあって最高だなと思った。

駅の北口の方にめちゃくちゃ急な階段があってそこからでしかアクセスできなそうな丘の上の住宅街が見えた。行こうと思ったが階段を掃除されている方がいて邪魔になるので遠慮する。今度来た時に行きたい。多分あそこからだと諏訪湖を一望できそう。

 

諏訪湖

 

諏訪湖周辺は鳥が多くいた。トンビの鳴き声や鵜、カルガモ、鷺、キジバト。人が少ないとその分街のざわざわも消えて鳥の声がよく聞こえる。よく晴れた日のコンクリートにはトンビが旋回する影が映る。ずっと高いところで街を眺めるトンビの目を想像して歩く。

富山の神通川にはキジがたくさんいた。鳥の声はそれぞれ特徴があって、子供の頃の記憶として声は覚えているがどれがど野鳥の声なのかは大人になるにつれて分かって行った。キジバトの声を聞くと夏休みの午後の何も予定がなくてBSでアニメを見ていた日陰の部屋を思い出すし、トンビの声を聞くとGWに田んぼに水が張られた景色の中を自電車で走っていた記憶が蘇る。目に見えるものとそこでなっている音というものは意外と強度をもって結びついている。東京の喧騒にいると鳥の声を聞くことは少ないがそれでもイヤフォンを外して散歩をすると何かしらの生物の音は聞くことができる。人間はそれぞれが勝手に話しているからそこに偏在する力はないが、鳥たちの声は一つの一貫性を持って時間を超えて記憶を繋げてくれる。

 

特急あずさで東京に戻る。

東京ではゆっくりしようと決めていたのでずっとベランダで本を読んで過ごす。

夏目漱石の"こころ"を一気読みしたりする。

映画館に行こうかとも思ったがGWで混んでいそうなのでやめる。

家で相米慎二のお引越しを見る。傑作。京都の景色の美しさがきちんと納められている。そして90年代付近の相米慎二を今一度再確認しなければならないのかもと思ったりもした。台風クラブやションベンライダーの引っ張られがちが作家だと思うが、お引越しの中で多用されるまわりこむようなカメラやそこで展開する長回しの中のキメのカット繋ぎ方はすごい。80年代の頃のある種無理やりやっていた垂れ流しの長回しとはまた違う質感。

そういえば市川準の映画がいくつか配信されていてどれか見ようか悩んでいると2000年代中盤以降(春、バーニーズであたりから)一気に画質が綺麗になっていて見る気が起きない。単純にフィルムからデジタルになったのだろうがこの年代の映画監督は結構こういうところでつまずいてしまう。(青山真治とか黒沢清とか)

自分は90年代の邦画フィルムの質感が好きなので過去にそういった質感で傑作を取っていた作家たちがデジタルなものに移行して行くのは少し違和感を感じてしまうのかもしれない。相米慎二の風花はデジタルかフィルムかわからないが違和感なく見れた記憶。

 

なのでなんとなく90年代の邦画を掘って見たい気持ちになって来たが、U-NEXTで探しても圧倒的に少ないことに気づく。塩田明-どこまでもいこう、月光の囁き、三月のライオン(元ネタの映画の方)、櫻の園がんばっていきまっしょいすらない。

そういえば富山の行きつけだったツタヤも2件閉店していて、意外と見たい映画が見れなくなるぞという危機感が出て来ている。(でもDVDこれ以上増やしたくないんだよなーとも思いつつ)

TV TELEPHONE TAPERECORDER

次の場所を探すために色々事務作業。

用事で久々にソラマチに行く。少し時間ができたので本屋に寄ったら柴崎友香氏の大阪についてのエッセイやジャックロンドン(訳が川本三郎氏だ)の自伝が売っていたので購入。どちらも面白い。

金曜日までに色々終わらせたので休日はいい感じに過ごせそうと思ったが、バンドメンバーが風邪で練習に来れず。ベースと二人で和音のアレンジを固める。個別に集まるとそれはそれで結構発見があったりするので良い。それぞれの和音に対するスタンスを確かめられた。

練習はずっと神保町のスタジオを気に入って使っているが喫煙所もあるし、そこからの景色がなんだか好きだ。神保町は人もそこまで多くないし、本もレコードも楽器屋もあってなんだかんだで一番行く街な気がする。

 

神保町のスタジオから見た景色

色々片付いたので日曜日は髪を切って本を読んで過ごす。

平日に届いていた大横山飴氏の新しい漫画を再読。ホン・サンスだなと思いつつも漫画でこういったことができるのかという単純な驚きがあった。例えば白山宣之の現代物の漫画を小津安二郎といってしまうのは簡単だが、それは小津安二郎の撮る日本家屋だったり日本的な家族構成に対して反応してしまって小津映画の特異点を見逃しているのと同じだ。ホン・サンスが同じカットで同じ人物で違う時空を描くのは映画的編集を逆手に取った多重露光する世界自体の自我のようなものを捕らえるためだと思うが、大横山飴の花の在りかは同じ話だが、カットの位置が微妙に変わっていてそのシーンの自我が異なっている(ように感じる)その点で、世界の見る夢ではなく特定の誰かの視点が画面に内在していて、そこにホン・サンスではない何かを感じた。(これがどこに至るのかはまだわからない)

 

侯孝賢のナイルの娘を観返す。前見たときは何も感じなかったが、あらためてみると"海がきこえる"みたいな映画だなと思った。主人公が既に終わってしまった出来事を回想するという形はとくに80~90年代前半までの小説や映画でよく見かけるやり方で、例えば村上春樹風の歌を聴けノルウェイの森がまさにそうだし海がきこえるもラストの吉祥寺駅のシーンに至るまでの話を回想する映画だ。

終わってしまった出来事を思い出すということは、思い出している誰かが(主に物語の語り部だろう)現在に生きているということで、ある種の客観性を持ってその時の出来事を振り返る。振り返るということはそこには時代性があって、現在との乖離があって、かつてそこにいた自分、住んでいた街は今もどこかにはあって生きているのだが、その時間という距離によって直線的に乖離している。触れられないという感覚を肉体性でなく記憶の中に再現するというやり方はたしかに90年代の感覚なのかもしれない。自分はこういう構造の話にある種無条件に反応してしまうので(あまりいいことではないのかもしれない)ノスタルジーに溺れないようにしたいとは思うのだが、そもそも過去を振り返る=ノスタルジーに浸る、が100%そうであるとは思わない。過去が現代と乖離するように未来も現代から乖離しており、その距離はその人が死ぬまで人生という時間において見た時にはその乖離の差は同じく無限小だ。ゼロ年代になって柴崎友香氏が書いた小説はそのノスタルジーさという感覚を全く無くして過去と現代と未来の話を書いたと思っている。過去の話や登場人物や距離が、現代と全く同じものとして立ち現れてすっと消えていく感じは、確かに生きていて自分でもふと感知することがある感覚だ。

防風林の揺れる様を見ると自分は高校生の夏休みを思い出す。そこに思い出はない。ただ木々が揺れていて、自分と防風林の間には茂った稲穂の田んぼが広がっていた。自転車から見た景色だ。おそらくくるりサニーデイ・サービスを聞いていただろう。その日から現在までどれくらいの時間があいたのかは知らないがあの時の気持ちはまだ残っていて薄れることはない(これからもないと思う)。あの瞬間は自分の時間の中に偏在しているので、例えば侯孝賢の映画でよくインサートされる木々のシーンでフラッシュバックするし、新幹線の車窓から見る自転車通学途中の学生を見かけた時に切り返しの視点としてとらえられる。

ゼロ年代に出てきたエレクトロニカによって音楽の時間というものの切り刻み方が格段に細かくなったと思う。それまではスタジオ録音されたものを編集するという点で、ある日、ある時間に録音された音によって(例えそれが別の時間のトラックをミックスするにしても)音源というものは記録という側面が強かったのに対してエレクトロニカはその録音された音はコンマ何秒の世界まで切り刻まれて、PC上の架空の時間の中にノンリニア編集される。だから、そこにある種の時代性は薄められてよりパーソナルな世界が立ち上がる。それが良いか悪いかは人それぞれだが、あの時あの瞬間という感覚は薄くなるのは事実だろう。(それでもエレクトロニカゼロ年代と結びついた音楽であり、当時聞いていたという個人の思い出として時代性を獲得するルートもある。ただそれは音楽自身が持つ特性ではない)

 

現代では、

TVは

ある日撮影され、録音した映像を編集し放映されるが

その出力先は受け取る側に一任され、テレビだけでなくネット上の配信に拡散される。

 

TELEPHONEは

場所の限定性を失って、いつでもどこでもどの時間でも繋がることができるようになった。電話先に出る人物もそのセキュリティによって限定され、我々は発した言葉が世界に完全に同時に流れていると錯覚するが、それはいまだに光の速さを越えることができないため、ゼロコンマ何秒ずれて認知される。

TAPERECODERは

磁気テープは失われ、メモリに保存される情報はその時その瞬間の時刻をファイルのプロパティ情報として記録する。しかしそれはPC自体の記憶でなく、ユーザ側の記録でもない。ただそこにデータが現れた瞬間の記録であってそこに時代も場所も空気も文字としてしか記録されない。

 

ただ、Googlemapのタイムライン機能を見返す時におちいるなんだかよくわからないが過去に自分が歩いた街の情報を認知する感覚は、自分という記憶装置を通すことでそういった情報を自分の過去とをつなげることはできる。そのインプットとアウトプットの装置はこれから先段々と減って、いま/ここ、だけがあれば良いという世界になりつつあるようにも思うが、決して消え去ることはないだろう。図書館にかつてあった貸し出しカードがPC上の情報に置き換わったことでその情報の及ぶ範囲が拡大したように、思い出す力さえあればそれを生かす道はある。

 

ヴィーナス・プラスX

5日間ほど海外にいた。

飛行機の中でゴジラ-1.0とベイビー・ドライバーを見る。

ゴジラは普通に面白かったけどまあ普通。

 

海外も同じところに行くと飽きるなと感じる。仕事柄歓迎される側なので何も考えなくていいのは楽だが、日本に帰ってきた時には結構疲れがきた。移動自体が疲れる。

 

海外中ずっと夏目漱石の行人を読んでいた。これは傑作。虞美人草で社会に帰属した登場人物が自然へと帰るための準備。それが次の"こころ"につながるとおもうと怖い。

二郎の視点で描かれる話は、兄の心のわからなさという配置に置換されてそれだけで効果的な語り方と思う。嫂と二郎の関係性も(元から知り合いだったような記述がある)深くは追われず、ただ人のわからなさというところに執着する。

最初の章の病院のくだりや、美人な看護婦との距離感。美しい流れの文章によってうまく回避される結句点はその浮遊感を持って物語を進行させている。それはもはや物語の換骨奪胎というところまで来ているのかもしれないし、新聞連載という性質上、先が読めない中で紡がれた話のわかなさなのかもしれない。

 

来週終わると色々決まるので準備をする。近所の公園も草の匂いが溢れていてGWっぽいテンションになっていく。

omni sight seeing

GWに諏訪大社にいくのでチケットを取ったり、色々調べたりする。折口信夫中沢新一の本での知識はあるが松本や安曇野に行く際の通過点に過ぎなかった場所なのですごく楽しみ。帰りは甲府にも寄れたらなと考える。

田山花袋田舎教師を読了。とても良い。自分のよく行く、加須~羽生あたりの景色が美しく描かれる。内容も割と自分にはくらってしまうものなのでちょっとセンチメンタルな気分になる。天気が良いので公園で全部読み切ったが桜が咲いていたり、新入社員が声出しをしていたりと4月を感じる。田山花袋は一旦置いておいて夏目漱石の行人にもどる。まだ読み始めだが弟の視点、大阪からはじまる話で"それから"とは違うのだなと感じる。導入部で既に面白い。

 

先週からの流れで侯孝賢の童年往事を観る。冷静なカメラの視点が一貫していてとても良い。木々の揺れる様、ズームしないカメラによって映される生活が、自分の全く知らない国の人々の話なのに共感を覚える。エリックロメールを少し感じたが、ロメールに比べて明らかに冷静に人物を捉えていて、静かに陶酔した。

DVDが出ていたエドワードヤンの恋愛時代も観る。一昨年の東京国際映画祭の記念上映から数えて3回目くらいか。英語タイトルの章でいきなり核心に変わる感じが良い。形にハマらず自分のやりたいようにやれということだろう。三宅唱きみの鳥はうたえるのラストはこれの引用なのかなとちょっと思った。結果は真逆だけど。

 

エドワードヤンはここ数年で再発しているので侯孝賢もDVD出してほしいな。

 

土日は田山花袋に影響されて埼玉にゆく。東武動物公園駅から幸手市まで歩くと巨大なビオトープと隣接する大きな公園がある。ビオトープを歩くとカモやキジ見かけたり、すみれや名前の知らない黄色い野花の匂いがとても春を感じて良かった。まだ田植えは少し先だが自分はやはり田んぼや川辺、水辺の匂いが好きなんだなと改めて思う。三鷹~国分寺あたりの高層ビルが減って郊外感が出る感じや、佐倉市近辺の林と住宅地が並列して立つ感じも好きだしよく行くが一番心が高まるのはやはり田んぼがある景色だな。

実は去年から公務員の内定を2つもらえたりしたりしたのだが、どちらも街として自分の好みでなかったので最終的には行かなかった。終の住処は田んぼの近くがいいなと切に思う。

 

幸手ビオトープから



ヨコハマ買い出し紀行の葉山とかも行ってみたいのだが(森山大道の街でもあるし)Googlemapで見ると畑と海の風景なので自分の原風景とは異なって結局いかないままだ。昔、鎌倉に行った時は結構面白かったのでいつかは行きたい。

 

来週から4日間くらい海外に行くので色々準備する。海外で楽器を買うにはどうすればいいのだろう。

フロントライン

映画を観るモードになっている。

クーリンチェ少年殺人事件、侯孝賢の80年代のものを中心に見る。クーリンチェは久々だがやっぱり映画館で見たいなと思った。DVDで観るとディスクが別れていて途中で集中が途切れてしまった。

4月に恋愛時代のDVDもでるので楽しみ。

金曜に休暇を取ってシネマヴェーラに行こうとしたが嵐だったのでやめる。家でフンクイの少年を観る。傑作。相米慎二北野武の間といった感じ。印象的なカットをただとるのでなく物語の中できちんと推移させているのが良い。パッケージにも使われている波をバックに踊るシーンもただそういうカットというのでなく少女のまえでふざけているという物語の必然があって生まれたシーンで、作為性のない視点で撮られている。というか侯孝賢の映画は本当に監督の気配がしない。自伝的と言われる80年代の数本もカメラの位置やカットの切り方を見ても誰でもないその町の視点として映画が成り立っているのが本当に素晴らしいと思う。

 

休日は気候が良くて公園に出てずっと読書をしていた。柄谷行人夏目漱石論、田山花袋田舎教師遠野物語の口語訳版などを読む。先週、乗代雄介の旅する練習の文庫が出たので買って読んでいたが泣くのを忍耐しながら読むくらい感動する。この本を読むのは何回目だろう。まだ単行本になる前に群像を買ったのを覚えている。自分がしたいことを捉えてそれに合わせて人生を考えること、というのは自分も小さい頃からずっとしてきたことなのですごくクラってしまう。"体を乾かさないカワウがいるか?"という問いは比喩ではなく直接的な意味で自分に届く。何かを成すのではなく、そうあり続けようと意識して前進すること。旅するために準備をすること、準備をしながら旅すること。そうしていつか暗闇になった時に初めて旅は完結する。ということだと思う。だからアビは亜美でカワウと一緒に水面で羽を広げて、最後は飛び立つのだ。

 

柄谷行人夏目漱石論が面白くて、夏目漱石に感じていたうまさと違和感の訳がすこしわかったような気がした。虞美人草のラストあたりの展開のあっけなさは社会から自然へ取り込まれたようにも見えるが、その逆でもある。女が死ぬという展開は社会が死んだのか自然が死んだのか。それはけっこう読み手による気がする。

坑夫を読んだときはカフカ的だと思ったし、夢十夜の暗さを特異なものとして受け止めていたがよくよくかんがえるとほとんどの作品に通奏低音としてその暗さは内在していていつの間にか流転する人だったはずの主人公たちが闇(自然)に取り込まれていく。そう考えると門のラストの展開も納得できるように思う。

三四郎の中にある"stray sheep"のシーンは文章の力でもって印象的なシーンとなっているが、その先の展開を考えると迷っているのは社会の方ではないだろうか。とも思う。

 

あまりに天気が良いので電車で荒川へ。なぜかパーカッションとサックスの音が聞こえる河原で田山花袋田舎教師を読んでいた。黒沢清大いなる幻影かと思った。

 

家に帰ってコタツと掛け布団を片付ける。