パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

フロントライン

映画を観るモードになっている。

クーリンチェ少年殺人事件、侯孝賢の80年代のものを中心に見る。クーリンチェは久々だがやっぱり映画館で見たいなと思った。DVDで観るとディスクが別れていて途中で集中が途切れてしまった。

4月に恋愛時代のDVDもでるので楽しみ。

金曜に休暇を取ってシネマヴェーラに行こうとしたが嵐だったのでやめる。家でフンクイの少年を観る。傑作。相米慎二北野武の間といった感じ。印象的なカットをただとるのでなく物語の中できちんと推移させているのが良い。パッケージにも使われている波をバックに踊るシーンもただそういうカットというのでなく少女のまえでふざけているという物語の必然があって生まれたシーンで、作為性のない視点で撮られている。というか侯孝賢の映画は本当に監督の気配がしない。自伝的と言われる80年代の数本もカメラの位置やカットの切り方を見ても誰でもないその町の視点として映画が成り立っているのが本当に素晴らしいと思う。

 

休日は気候が良くて公園に出てずっと読書をしていた。柄谷行人夏目漱石論、田山花袋田舎教師遠野物語の口語訳版などを読む。先週、乗代雄介の旅する練習の文庫が出たので買って読んでいたが泣くのを忍耐しながら読むくらい感動する。この本を読むのは何回目だろう。まだ単行本になる前に群像を買ったのを覚えている。自分がしたいことを捉えてそれに合わせて人生を考えること、というのは自分も小さい頃からずっとしてきたことなのですごくクラってしまう。"体を乾かさないカワウがいるか?"という問いは比喩ではなく直接的な意味で自分に届く。何かを成すのではなく、そうあり続けようと意識して前進すること。旅するために準備をすること、準備をしながら旅すること。そうしていつか暗闇になった時に初めて旅は完結する。ということだと思う。だからアビは亜美でカワウと一緒に水面で羽を広げて、最後は飛び立つのだ。

 

柄谷行人夏目漱石論が面白くて、夏目漱石に感じていたうまさと違和感の訳がすこしわかったような気がした。虞美人草のラストあたりの展開のあっけなさは社会から自然へ取り込まれたようにも見えるが、その逆でもある。女が死ぬという展開は社会が死んだのか自然が死んだのか。それはけっこう読み手による気がする。

坑夫を読んだときはカフカ的だと思ったし、夢十夜の暗さを特異なものとして受け止めていたがよくよくかんがえるとほとんどの作品に通奏低音としてその暗さは内在していていつの間にか流転する人だったはずの主人公たちが闇(自然)に取り込まれていく。そう考えると門のラストの展開も納得できるように思う。

三四郎の中にある"stray sheep"のシーンは文章の力でもって印象的なシーンとなっているが、その先の展開を考えると迷っているのは社会の方ではないだろうか。とも思う。

 

あまりに天気が良いので電車で荒川へ。なぜかパーカッションとサックスの音が聞こえる河原で田山花袋田舎教師を読んでいた。黒沢清大いなる幻影かと思った。

 

家に帰ってコタツと掛け布団を片付ける。