パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

アメリカの夜

夏目漱石を読み返している。本屋でなんとなく草枕を読んだら文章が素晴らしくて改めて年代順に読むことにした。今は三四郎まできた。

 

草枕を誤読すると、単純な芸術讃歌のように読めるが、夏目漱石自身は草枕の画家のような生き方が正しいとしていない。物語の構成上(というか夏目漱石の文章力によって)、そう言った夏目漱石の視点はまったく描かれないため物語の流れだけを読めば戦争を避けて田舎に逃げた画家の生き方が正しいようにも思う(ラストに戦争に向かう若者を横目に絵のインスピレーションを得たシーンで終わるところもうまい)。だから冒頭の有名な文もそれが夏目漱石の考えのようにも思えるが(世間でもそういく誤読が多いように見える)、あくまであの文は草枕の世界に過去からあるどこかの誰かが考えた格言、という扱いが正しいと思う。ああいう格言が存在する世界でそれを拠り所にしている画家の話、なのだと思う。

 

夏目漱石は世界を作るのが本当にうまい。そこにある世界を見てきたように文章化できるという点では深沢七郎と共通していると思う。

 

虞美人草の中に"太い角柱を2本立てて門という"とかかれた箇所があり、衝撃を受けた。

これはある家の描写なのだが、誰かの視点でその門を描くのでなく、誰でもない(夏目漱石自身でもない)視点で簡潔に風景を書いているところにこの人の本質を見た気がする。

"という"とすることでそこに世間が生まれる。門についてそう思っている世間があり、その中に舞台となる家があって、そこに人物が現れる。すでにある世界にカメラを立てて、そこに映ったものを描くような文章だ。そしてこう言った文章を読んでいると読者は作為性の枠外に連れていかれ、その世界の中の一人として文章を読むことができる。

 

夏目漱石は物語を語る以前に、その世界の存在を強固にすることに注力している。

 

 

この誰でもない視点の描写は夏目漱石のあらゆる物語で出てくるし、特に章の変わり目、場面の変わり目の冒頭に出てくる。映画で言うと上空から世界をとって段々と人物にズームしてくような没入だ。それをそう言う演出を使わずに文章だけであらわせられるのがすごい。

 

三四郎の次は"それから”なので楽しみ。ここからさらにすごくなるから。

(来週から一週間は海外旅行なのでお預けだが)

 

最近書いていた曲が出来上がってちょっと休憩モードであるが、北野武の首が結構良かったり(タイムスリップしたアウトレイジだったが)夏目漱石を読んでいて色々と思うことがあったりして次の曲の構成も出てきたり調子が良い。

 

ライツ、カメラ、アクションという掛け声の後、そこには映画という世界があってそこで動く人物たちは多重露光する俳優という人格とその世界の人格が重なる。カメラの枠外にも世界があると思える作品を見ると自分は物語と関係なく感動するのだが、トリュフォーアメリカの夜はそういった意味でツボすぎて見ると眠れなくなるほど感動する。

 

近所の映画館でロメール作品の上映をしているのでちまちま見に行っているが(DVDで全部持ってるが映画館で見たい)ロメールはあくまで現実の世界と地続きなように感じる。それでもその時代を知らない自分が見てもある種の心地よさを感じれるのはなぜだろうかと考えている。