パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

記憶のすべて置いて行けるか

連休だがバンド練。新曲を合わせる。

かなり難しい曲だが良い感じになりそう。

連休だからかいつもよりスタジオが混んでいた。少しずつ生演奏の音楽をやる人が戻ってきている感じがする。

 

ゲーム会社で働いているが自分はそこまでゲームをやらないし、ゲームを作る行為に対して何かを創っているという感じになったこともない。仕事でちょっと関わったゲーム製作者の人がゲームは映画や小説と違ってユーザー側の視点によって初めて創作として完成するといったことを話していてなるほどと思った。

 

平沢進氏が音楽においてインタラクティブライブなるものを行なっていたが、観客(ユーザー)の選択によって物語の流れが変わるというのは確かにゲームの特徴なのかもしれない。

もちろん大筋の物語というものはあってそこに最終的に結句するわけだが(エンディングが分岐している場合もあるが)、そこに至る過程は人によって異なる(可能性がある)という意味ではゲームは開かれているし、その世界の外から一歩も出られないという意味では完全に閉じている。

moonというゲームではそういったゲーム世界を突破するというテーマがあってあれは素晴らしいと思ったが、あくまで王道ゲームの亜種であり亜種であるからこそ自分が反応したということだろうか。

 

見る側に選択をする自由があるもの、という意味では音楽も映画も小説も同じだが

そのintensityはたしかに違うような気もする。音楽はリズム構造によって(ポリリズム解釈はあるとしても)ある程度聞く側を導くことができるし、ただそこから感じる感情まではコントロールできない。"悲しそうな顔をした猫の図鑑はない"と中平卓馬は言ったがそういったものでも何かを感じてしまう可能性はある。

 

何かを選択すると、選択されなかった何かが生まれ、それは虚構として確かに存在するようになる。そう言った選択可能性というものが創造とイコールではないが近しい存在であるとして、しかし一方でその選択自体がある世界の中で閉じてしまっていてその世界の中でのみ通用するルートを辿ることができないとしても、それは開かれていると言えるだろう。

 

選択すること自体が選択しないことの世界を作り出すわけでその二つの世界を繋ぐことはできないが、タイムシフト的に移動は可能と思う。

 

あまりゲームはやらないと言ったがゼルダの新作とアーマドコアはやりたい。会社の金で買えるし。