パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

レス・ザン・ゼロ

平日の散歩中に新しい曲のアイディアが出てきてメモる。

週末は雨だったので家にこもってギターでいろいろ試すが難航。

バラバラの三人の演奏を合わせる合奏というものをやってみたい(文字にすると陳腐だが、、)

 

この間読んだ高畑勲のエッセイで、主人公への感情輸入型の映画と客観視点を持った映画について書かれていていろいろ考えたりする。

 

赤毛のアンを見てすごいと思ったのは、最初の方の話でアンがグリーンゲーブルズに住んで良いと決まるところの話の流れで、話の途中でマリラがアンを家に置こうと決めるのだがそれをアンに伝えることはしない。それはマリラとマシューと観客にのみわかっている事実でアンは最後の最後でその決定を聞いて喜ぶという流れ。主人公への感情輸入型の演出をするのであれば観客にもその事実は伏せて最後までハラハラさせる方が感動は高まるだろうが高畑勲はその選択をしない。つまり、グリーンゲーブルズに住むという結の部分が重要なのではなく、そこへ至る流れ、人物たちの心の動きこそが描きたいことなのだということだろう。この演出がすごいのはたったこれだけの組み替えで観客の視点が客観的になることだろう。アンはそのキャラクター性からある意味過剰に思い入れされてしまう可能性もあるし、全く理解されない可能性もある。だから感情輸入型にしてしまうとそれはアンのキャクターの話に集結してしまい、いかにアンが素敵で素直で心が綺麗でといったところから一歩も出れなくなるだろう。しかし、客観性を持たせるというたった一つの演出の組み替えによってアンが変な子であり、それがある時はユーモアに、ある時は聞き分けのない子供として、ある時は大人にはない視点を持った一人の人間として見ることができる。それはマリラに対してもマシューに対しても同じで、観客はそういったひとたちを窓の外から眺める庭の木々のような視点になる(雪の女王だ)

 

音楽の感想としての常套句で、あのバンドがいたから生きる勇気が出たといった表現があるがそれは正確ではないと思っていて、生きる勇気を出せたのは聞いた観客側なのであってその曲のそのバンドの良さに気づいたのも観客であるあなただということだ。音楽が提示しているものが正解として主観的に入り込んでしまうといつか破綻する。人生はその曲の中で描かれること以外で多くが成り立っているのだから。

 

逆に客観視点があればたとえある曲の良さがわからなくても、いつかわかる日がくると思える。(いつかは想像を超える日がやってくる)

 

何かを作る側の人間として最も恥ずかしいのはその作品、曲の良さを理解された上で陳腐であると思われることだろう(客観性を持ってきちんと否定される)音楽を聴いていてこういう感覚になった曲やバンドは自分はもう二度と聞けない(そんなものにかける時間はないのだから)

 

天然コケッコーから駅から5分花に染むまで順番に読み返していて

やはり天然コケッコーは異質であり傑作だと思った。

どれも天才的な作品ではあるが100年後残るとしたら天然コケッコーだろう。あそこまでストーリーに恣意さがなく、客観性を持ってキャラクターを描けるのは脅威だと思う。

カールテオドアドライヤーの映画を見返したりして、奇跡のラストあたりの話の流れであったり、リンダリンダリンダのコメンタリーを聞いていて山下敦弘が自分の演出がわかりづらいよなと言っている箇所だったり、人は意外と与えられることに甘えていて自分で考えない生き物なんだなと改めて思う。自分もドライヤーの奇跡を久々に見て葬式のシーンで普通に泣いていたのだが、あそこは演出としてなくというよりは各人物の交わらなさに絶望するという感情の方が正しいようにあとで思った。だから最後に奇跡は起こるのだし、その瞬間の子供の笑い方が異様で無垢なのだろう。

 

読書に疲れた時にミステリを読んだりするが、普段読んでいる本と違って数時間で読み終わってしまう。それは結末があって、なんとなく決着がつくとわかっていて、キャラもわかりやすく感情輸入できてある程度読み飛ばしもでき、ほどほどに良い気持ちにしてくれるから続けて読めるといったことなのだろう。

それが良い悪いではないが、自分が本当に何かを考える時に、ほとんど全く(サブカルの引用くらいでしか)そう言った作品からの影響は役には立たない。

その意味でも現実逃避には最適なのかもしれないが。