パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

国道沿いに火花が散り、

ジョンコルトレーンとエリックドルフィー の共演盤が出たので毎日聴いている。

エルヴィンジョーンズのドラムがでかくて最高。

 

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パワプロに脳を支配されていて一日10時間くらいやっていたが流石に飽きてきて通常の暮らしに戻る。本屋でいくつか本を買う。新書で本を買うのが楽しい。

 

 

島口大樹の"鳥がぼくらは祈り、"という本を特に情報もなく買って読んでいるが(まだ途中)、写真的な思考を文章化しようとしているところが面白い。記憶の遍在というものを複数の視点で描くことで立体になるのでなく、あくまで定点観測として遍在するいくつかの記憶のその距離によって現れる変化と変わらなさ。そこにある川の風景の普遍さと近づくことによって川の水が常に変化しているという事実。静止と動くことの差分を小説でやろうとしているのがわかってよかった。森山大道のエッセイくらいでしかこういう文を知らない。

 

ここ最近はずっと50年代の日本映画ブームで見ているが、北千住のブルースタジオで泥の河をやっているようで行きたい。映画館で昔の映画を見たい気持ち。

平日に誘われてサニーデイ・サービスのドキュメンタリーを見に行く。夏の渋谷には行きたくないから誘われなければ行かなかったと思う。音楽系のドキュメンタリー映画は最近流行っていてほとんどがクソだなと思っているがこれはとてもよかった。ここ数年の曽我部恵一については吉田豪youtube やインタビューで語られているので知っている情報も多かったが映像で見て本当にカレー屋の厨房に自分で立っている絵やライブが中止して模索している様などが見えて、セルフプロデュースをしない人だなと思った。割とロックの虚言的なところに惹かれている人だと思うが、本人にそれを反映しないというか、見栄を張らないところがすごい。サニーデイの歌詞も引用をしていたりするが、いわゆるサブカル的なカッコつけの引用でなく自分の言葉に消化しようとしているとことろにこの人の本質があるように思える。

 

時間が止まって音楽が始まる、という言い換えは素晴らしい。

 

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溝口健二雨月物語を観た。今年に入って編曲による飾り付けでなく曲そのものが持つ根幹、インスピレーションの根源みたいなものに興味があって、そういった視点で溝口健二を見ると演出や画面構成の美しさよりもその根源に何かがあるなと感じる。京マチ子が現れる屋敷のシーンの美しさや小舟をこぐシーンの怪しさではなく、そういったシーンの根底にある無常観というか徹底的に、残酷なまでに女に対する非常な運命と男の愚かさみたいなテーマにこの人の本質があるように思う。そのインスピレーションがあって初めてああいった幻想的な演出が生まれるというか、編曲、演出とインスピレーションの順番が逆になると、物語が同じだったとしてそれは全く違う結果になるだろうなと思った。

 

技巧的に難しいことが簡単にできる、そのやり方が動画で共有される時代なので、その技巧的なところから入る人が多い気がするが、技巧が先行してそこに無理やりはめ込まれる根源的なテーマは当たり前だが表面的でしかない。中心にあるのが技巧なのだから。根源的なテーマをその人のアイデンティティと言い換えるなら、そういった技巧が核にあるものは代替可能なものとも言えるだろう。それが大衆性というのかもしれないが、自分がそれこそサニーデイをずっと聴いていていまだに新譜を唯一追っているバンドなのはそのアイデンティティだけで曲ができているように感じるからかもしれないと思った。

 

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金曜日に宮崎駿の"君たちはどう生きるか"を観た。とてもよかった。観ているとき、前半は割とワクワクする冒険があるのかなと思ったが、後半に入ってバンド・デシネの想像力というか闇の国々のいくつかの話を思い出したりした。不思議の国のアリスというコメントもいくつか見かけたが、アリスは夢の不条理性に特化してエンターテインメント化させた作品だと思うが(小説も映画も)、宮崎駿の新作は不条理でなく、誰か根幹に創造者の視点を強く感じた。不思議の世界はいくつもの扉によってあらゆる時に遍在していて、というところは少しデヴィットリンチの赤い部屋的だなとも思ったが、それが溢れ出して元いた世界に流れ出して、虚構の層が変わるところはすごい。主人公が最初にいた世界も虚構の一つとして層の連なりが変わって終わるというところは闇の国々がやろうとしていたことそのものだろう。

 

あと、塔や屋敷へのアクセスの仕方が毎回変わるというところもよかった。庭にある塔がいつの間にか森の道を通ってアクセスしなければならない場所になったり、そもそも主人公が東京から舞台となる屋敷へ引っ越す時の移動シーンの少なさからもある場所から別場所へと気軽に移る様は、扉の向こうがどこに繋がっているのかわからない危うさにつながる。宮崎駿は割と舞台の位置関係をきちんと作って、その上で人物を動かしていた記憶だがほとんど小津安二郎に近いくらい、場所と場所のつながりというものが分断されているのが面白かった。

 

というかこれで本当に引退できるのかなと観ている時も思った。

これだけアイディアがあふれていて次の作品を作らないとはならないのではと思った。