パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

SAKURA +PLASTIC

蓮實重彦と島口大樹を読んでいた。

ゴダールの映画において画面や音、演出の意味を無視して(そんなものはないとして)ただ画面を見るという方法で観る。

勝手に逃げろ/人生、アワーミュージーックを観直していたが、映画から何か人生の示唆をもらおうというのでなく暇つぶしとして映画を映画として、画面を画面として、フィクションをフィクションとしてみる楽しさに気づく。アワーミュージックの天国編の美しさはゴダールが自分の暮らしている町の近所で撮っている楽しさに満ちているように思う。映画監督が映画を撮っていることを意識しながらその映画を観るというのはゴダールかジョナスメカスくらいでしか得られない感覚だが、それは撮っている本人自体が自分が何を撮っているのか完全に理科していないからかもしれない(何かを撮ろうとする意図、インスピレーションはあるがそれが導かれる場所を監督として想定しない)

 

島口大樹はやりたいことはすごーくわかるので楽しく読めた。書いていることがフィクションというより批評に近いので人物がほとんど作者と同義になってしまっているのは少し気になった。オンザプラネットは柴崎友香の"きょうのできごと"とやりたいことは同じと感じたが、20年前の作品とほぼ同じ手法になっていて、柴崎友香のすごさを改めて感じた。

 

誰かのコメントに対して"要約すると~という意味"みたいに言い直すことに疑問を感じる。

それは言葉を万能のものとして信頼しすぎていないかという疑問。誰かが発した言葉が、誰かの思考と完全にイコールであることなどほとんどあり得ないと思う。そもそも人間が勝手に作った言葉という枷を使って、言葉とは形の違う気持ち、感覚というものを表しているわけで必ず何かしらの変換、変容が行われる。話し言葉であればニュアンスや訛り、声のボリュームの関係性もあるだろう。ありきたりだが、音楽や映画があるのはそういった言葉以外でしか伝え得ないものを伝えるという意味もあるだろう。

だから、誰かの言葉を、コメントを、そのままその人の真意として受け取って、しかもそれは短くするとこういう意味だと自分の言葉に変容させてしまうのは、それは二重三重の思考の層(しかも別人の)を通り抜けているわけで、もう別の言葉になっているだろう。

 

本当ならば、言葉は過去のものでも変容可能で、その人の意見も塗り替えても良くて、未来の知らない自分が、今の自分とまったく別の言葉を話していても良いはずだ。だから人は話せるし、自分の(今の)意見を言える(語れるし、作れる)のに、

その可能性を全て消して、いま、この時に全ての答えがあってそれを言葉として表現できる(と思い込んでしまう)人が、誰かのコメントを要約できるのだろう。

 

普通に考えればかなり怖い行為であるが、結構やっているひとがいて驚く。(それは例えば宮崎駿の新作に対して、過去の監督のコメントを引用して作品の意図を解釈しようとしている、といった行為でもある。現在を完全に無視して過去のコメントが完全な真意とする理由がわからないが)

 

暑くて散歩をするのが朝早くだけになっている。散歩をしながらFrank Oceanを聞いていた。

Blonde以降のFrank Oceanの歌には中心のメロディー以外に、

コーラスではない、仮歌みたいなフェイク、ユニゾン、つぶやきが多くミックスされてる。それは中心のメロディーに至るまでの過程のようにも感じるし、そもそも中心(真意)などないという態度にも感じれる。複数の時間にいたFrank Oceanが同じ一つの歌のなかで遍在して現れる様にとても感動するし、自由で良いなと解放される。同じメロディーのボーカルを二回録って重ねるダブリングとは違う、不思議な感覚になるのだがこれをギターで、バンドでやれないかと考えている。

 

 

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