パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

ノスタルジア、ウルトラ

タルコフスキーの映画術のエッセイが文庫で出たので購入。かなり込み入った、しかし真摯に映画を撮ろうとしている様が書かれていて少し感動する。

 

同じく文庫化されていたガルシア=マルケスの中短編を読んだらやたら良くて、諸々読み返している。ガルシアマルケスの小説への誤解というかミスリードについては思う所はあるが、ああいったマジックリアリズムの紹介のされ方をするとしょうがないかなとも感じる。

 

この人の小説は語られる状況を少し俯瞰する場所に視点が設定されている。

どれだけ美しく、グロテスクで、非現実的なシーンでもその裏に、ある種の真実(実際に起こったこと)と異化された寓意が両立している。

 

主人公(というか物語の中心)に主観視点がいかないのもそういった俯瞰の視点を強めているように思う。

ガルシア=マルケスが小説家になる前はジャーナリストであったという事も関係があるのだろうか。あくまで真実に基づいたフィクションというところに、この人のインスピレーションの源があるように思う。

だから、マジックとリアリズムは並列関係ではなく、マジックに内包されたリアリズムをあくまで傍観者として見つめること。それ自体が小説であるといったような二重の観察の視点を感じる。(話の中で傍観者が良く出てくるのもうなずける。写真家、小説家、新聞記者)

 

この間、劇場で見て以来に映画版の海街diaryを見た。

演技等々突っ込めるところは多いが原作の人間関係の部分をより時間という流れの中に落とし込むことで、見えない繋がりの中にある生活が浮かび上がってくるのがとても良い。

いつの間にか季節が移り替わって、人間も入れ替わって、ただそこにある(かつてあった)関係や感覚だけが残っていく(やがて忘れられていく)。一歩間違えるとスローライフ映画になりかねない題材をある家族の人生の一時をとらえたような映画にできているのはすごい。

 

タルコフスキーが映画術として、商業的なことより、自分の真実をどうやって映画として記録するかに固執したように、ある種の現実として(パラレルな世界として)映画を小説を作るという感覚はそれぞれ共通しているように思った。