三年前に山梨の武川村という場所に行って川遊びをした。
武川村は写真家の深瀬昌久の別荘があった場所で、森山大道のエッセイの中にその別荘での夏の出来事が書かれたものがあって知った。
武川村に流れる釜無川で川遊びをした時、一緒に行った友達以外に人はおらず、
ちかくの小学校のだだっ広いグラウンドはまったく無音で夏の蝉の音だけが響いていた。
東京にいると無音の時間というものがない。
真夜中に街を歩いていても誰かしらに会うことになる。
それが良いか悪いかはノスタルジーや個人の思い出と結びつくのでどーでも良い話なのだが、
あの田舎の無音の感覚は他に代用が効かないという意味でたまにたまらなく体感したくなる。
京都でやっているブライアンイーノ展に行きたいので
ついでに山梨→京都という旅行を考えている。(車だと遠いか?)
来月の梅雨が明けたあたりを狙って行きたい。
アンビエント音楽というものが未だにどういったものか完全に捕らえられているわけではないが(細野晴臣の観光音楽という概念は素晴らしいと思っている)、東京で暮らしている中であの無音の感覚を思い出すことができる少ないエレメントの一つだと思う。
音楽を聴いて無音を感じるというのも変な話だが、
そもそも田舎でも音はしている。ただし、それは人間の意志の介在しない音で
街に潜む見えない川や、蝉の音、山を越える電車の音などが規則性なく(あるいは構造主義的に見えない規則にならって)混ざり合い鳴っている。
そういった音の中に身を置くとなぜが無音の感覚に至る。
昨日も今日も明日もなくなって、ただ、その場所、と自分、と、季節がある感じ。
三好銀という漫画家がいた。
昔、国分寺北口の駅前にあった本屋でたまたま表紙に惹かれて
十数年ぶりに復活した三好銀の新作を買った。
三好銀の漫画も音がしない。
正確には人間のざわざわが聞こえない。
書き割りのような背景と、変わったパースの絵。
そしてどこにも到達せずにこんがらがったまま終わる話。
独白が多いからなのか、その絵の力なのかわからないが
三好銀の漫画を読んでいると、すでに終わってしまった話の追体験をしているような感覚になる。
だから、記憶の中で膜が張ったように音が遮断され、物語が流れ込んでくる。
何も起こらないけど何かがどこかで起こってしまった感じ。
映画館で映画を観る人を映写室のガラス越しに見ているような
幸せな瞬間があの人の漫画にはある。