パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

Drive Your Ocean

北野武を順番に観る。今週は3-4X10月ソナチネまで。

3-4X10月は素晴らしいが改めて観るとどの作品も徹底して空っぽだなと思う。(別に悪い意味ではなく)

映画として決まっているシーンや演出が連続して繋げられるだけできちんと作品になり得るという一つの発明なのかも知れない。3-4X10月だと前半の野球チームの流れと後半の沖縄編にほとんど物語的な意味はないが(そもそも夢オチという設定だが)、その空っぽさが観ていて気持ちがいい。ソナチネを観るためにDVDを探したが見つからず改めて購入。多分大学生以来に見たがこんなに暗い話だったっけと思う。相撲のシーンから夜の舞踊のシーンなど本当にハッとさせられるがまったくの空っぽでありなんとも不思議な気持ちになる。とにかく北野武の顔(というか目が)怖すぎてゾッとする。

バンドでMVを撮る気はあんまりないが、もしやるならこれくらい空っぽにやりたいと思った。

是枝裕和の新作とか田島列島の原作の映画とかをやっているが、物語性に少し当てられるのが嫌でみようという気になれなかった。北野武ソナチネ以降はだんだん意味が付いてくるようになるので最後まで見れるかわわからないが、、

 

井伏鱒二を読んでいたらなんだかつげ義春みたいだなと思って少し調べたらやはり影響を受けているようだった。そういえば山椒魚という漫画を書いていたなと思ったり。

変な状況設定、人物、それらを俯瞰から眺める視点といったところに共通点をみる。(鯉という短編はこのまま絵をつけたら、まんまつげ義春の漫画になりそうと思った)

有吉佐和子の紀ノ川が素晴らしすぎたので青い壺を買って読む。こちらも素晴らしい。とにかく文がうまいのでスラスラ読める。

池辺葵のブランチライン、吉田秋生の詩歌川百景の新刊が出ていたので読む。どちらも日本の文学的なものからインスピレーションを受けたような漫画だが(比較するものでもないが)自分はブランチラインが圧倒的に好きだと思った。設定としては山の上に住む四姉妹と母親を中心とした話で設定だけ見ると庄野潤三みたいだが、物語の進め方が良くて、進行中の出来事のエレメントから過去のあるシーンが浮かび上がって少しずつその人物たちの生き方がわかっていく構成が素晴らしい。ただ、物語のための補足として回想を絡めるのではなく、

そこにその人がいる、その実在の連続性として過去があるというスタンスに読んでいて幸せな気持ちになる。遍在性とはまた違うあり方だと思う。

詩歌川百景の方は時勢を切り取って話を作っている感じが、なんだか朝ドラみたいだなと思ってしまうが海街diaryを書いた人だし、物語の関連性もあるのでもう少し読もうとは思う。ただ、人物がそこにいるというよりは作者のやりたいことのために人物が作られている感じはやはり冷める。その中でも、過去に山で遭難をした人の話とか、物語の流れとは関係なく行われる祭りとかそういった過去からそこに"ある"感覚の話が出てくるシーンは面白く読めた。

自分は"ふたつのスピカ"という漫画で連載漫画の面白さを知った人間なので、あの感じを求めてしまうところはある。今の所、くらもちふさこ天然コケッコーがその最たるものと思っている。ラジオか何かでスラムダンクで一番好きな話が試合のシーンではなくてみんなで試験勉強をしたり夜食で焼うどんを食う話といっている人がいてすごく納得したことがあるが、そういう誰でも知っているような話を面白く描けているものに惹かれ流傾向があるのかも知れない(この感覚もうまく言語化できないが)

 

天然コケッコーでも、一番好きな話はそよちゃんたちが子供の頃にお昼になるサイレンがどこでなっているか探すというやつで、その思い出の場所が別のタイミングで別の思い出と結びつくシーンで本当に感動した。過去や場所や人物はそれぞれパラレルに時間を経るが、それが偶然結びついたり、また離れたり、そういうものを面白いと思う。それは漫画や映画、小説といった神の視点で表すことによってより鮮明に面白さが伝わる。

でも個人の生活の中でもそういった感覚はやはりあって、そういった瞬間を求めて生きているといっても過言ではないかもしれない。

だから自分は連休にはきちんと帰省するし、家族や昔からの友達話すことも続けたいと思う。それはノスタルジーにも思えるが、実は未来に開ける可能性がある弱い弱いフラジャイルな性質も同時に持っているはずだ。

今思っている感覚を自分の過去を知っている誰かに話すこと。

それは過去の自分と今の自分とそして、これから変わるかもしれない未来の自分を他人の視点(ビデオ)に録画してもらうようなものなのだろう。劣化する記憶の中で誤読されて伝わってもいい。それが未来の誰かと誰かの会話の中で、笑い話になればそれもいい。