パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

伊藤重夫-踊るミシンについて その1

-introduction-

伊藤重夫さんの踊るミシンという漫画のオリジナル版(のちに復刊版が出る)の帯には以下のような煽りが書かれている。

“踊る美少女 飛びまわる鳥男 7月の海岸”

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そしてこの漫画を読み終わった人たちはこの帯文に深く納得するだろう。
なぜなら、この踊るミシンという話はあまりに混乱しており、話の主題(そんなものがあるとして)に対する前振り/結末が書かれることは無いまま終わる。話の時系列も乱雑に接続されていて、どの話(あるいはどのコマ)がどこにつながっているのか一読してわかることは無い。そして読み終わった後には上記の帯文のような断片的な(しかしとても美しい)映像のみが頭にこびりついているだけで、この話がいったい何を表しているのか理解するのは難しいだろう。

踊るミシンは団地に住むとある姉弟が屋上で鳥男を目撃するシーンで幕を開ける。
しかし、このシーンがこの漫画の時系列で一番初めの話なのだろうか?

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例えば、物語の中盤で田村と麗花が鳥男の噂をするシーンがある。
団地の屋上に現れる空中に浮かぶ男の話。田村は団地と団地の間を綱渡りしているトリックだとうそぶく。

もしかしたら、冒頭のシーンはそんなうわさ話のように、誰かから伝わった話の再現シーンだったのではないか。実際、冒頭のシーンの姉弟と主人公たちが話の中でからむことは無いし、例の団地に主人公たちが訪れることもない。

つまりこういうことだ。

鳥男は怪談話の中の人物で実際には(漫画内の現実)存在せず、そのうわさ話が映像化されているのだと。

しかし、もし鳥男がうわさ話の中の人物であったとして、この漫画ではそのうわさ話と漫画内の現実の話が同等に描かれている。(どちらも現実の話のように。

これはかなり危険な描き方だ。

例えば、冒頭の姉弟のシーンの後に田村たちが鳥男の噂話をしているシーンにつなげば、読者は“ああ、さっきのシーンはうわさ話のイメージ映像だったんだ”と理解できる。しかしそうはせず、冒頭のシーンの後、今度は同じ地続きの世界の話として田村たちの話が始まるのだ。こうすることで、読者は田村たちの生きる(漫画内の)現実世界にも鳥男がいるのだと錯覚してしまう。(つまりこの漫画は現実世界に鳥男が生きている漫画なのだと。団地の中にサイキックが生きている大友克洋童夢のように)

この感覚は漫画のリアリティを美しく混乱させる。

例えばもし、この冒頭のシーンがなければこの漫画の帯文は違ったものになるだろう。
高校生の男女が音楽バンドを組んで青春を謳歌し、消失による痛みによって成長するといったような王道のジュブナイル漫画になるだろう。(実際、踊るミシンの原型となったと思われるチョコレートスフィンクス考ではそのような青春の話となっている)

しかし、冒頭のシーンが挿入されることでこの漫画はそういった青春のワンシーンの端では鳥男が空を飛んでいるシーンがあり、それが同列として存在することでとても不吉な予感を内在した世界が立ち上がってくる。

鳥男は誰なのか?

 

 

 -飛びまわる鳥男 編-

夢や回想シーンと現実を同列に描いた作品で思い浮かぶものとして、デビットリンチのマルホランドドライブ(その原型ともいえるロストハイウエイも)が上げられる。

マルホランドドライブでは前半に描かれるシーンが後半の世界で見ている夢となるように設定されている が、そのトリックは一見しただけではわかりにくい。それは、その夢とされるシーンがあたかも現実の話のように演出され、延々と続けられて(前半1時間以上)いき、踊るミシンと同じくこれは夢(回想)であるというような説明もなされない(実際にはシーンの節々で夢の暗示がなされているが初見で見て気づけるようなものではない)。

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そして、観客が現実世界と思い込んでいるシーンで夢でしかありえないようなことが起こる。しかし、観客にはそれが夢であるという説明(演出)がなされていないので、“ああこういう事が起こる世界なんだ”という思い込みによって、奇妙な、しかしリアリティのある世界が出来上がってくるのだ。

私はこの奇妙なリアリティというものを踊るミシンの中にも強く感じてしまう。
それは、鳥男という存在そのものだけではなく、押し入れの中のブラックホール”THE END”の話、海岸で踊る麗花に投影される鳥の影、屋上で殺された同級生の話、など漫画の中で語られる(あるいは描写される)いくつものシーンでそれを感じることができる。

これらの現実世界ではありえないような描写は、しかし漫画内でリアリティを持って読み取れられる。それはやはり、冒頭に置かれた鳥男のシーンの効果が効いているように思う。あのシーンから作品世界へ入る読者は、マルホランドドライブと同じように作品内のリアリティに引っ張られ、いくつもの奇妙なシーンを受け入れていく。

ここでその奇妙なシーンたちをよく見比べてみると、鳥男に関するシーン以外はすべて漫画内の誰かの回想となっている事に気がつく。(例えば、THE ENDは田村の回想として麗花に語られる)逆に、鳥男に関するシーンについては冒頭でも言及した通り、漫画内の現実の地続きとして演出される。つまり、冒頭の鳥男のシーンによって他の奇妙なシーンにリアリティが生じ、奇妙なシーンとなってはいるが、それらのシーンと鳥男は明らかに質が違うように思う。

それでは、鳥男は誰の夢(回想)なのだろうか?

麗花のバレエシーンを考えてみる。このシーンではラストカットで麗花のダンスに合わせて巨大な鳥のような翼をもった影がバックに映る。(他のシーンで描かれる鳥男には翼はなく、麗花の影と一致せず一貫性がない。)ここで注目したいのが、この影が映るシーンの田村のカットである。彼はこの鳥の影を見ておらず。麗花のダンスすら見ていない。

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つまりこの巨大な鳥の影を認知できる人物は漫画内にはおらず、読者のみがそれを認知できるのだ。

-7月の海岸 編-

“自殺のための5教程 5つマスターすれば楽に死ねます”
とは、踊るミシンの冒頭扉絵に書かれた副題である。(復刊されたバージョンでは削除されている)

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この副題について作品内で触れられることは無く、一見してなんのことだかわからない。
大体において、小説につく副題、冒頭の引用文、楽曲におけるRemix verのタイトルなどは作者の遊び要素が強く、裏事情を知らない人には何を意味するのかわからないものが多い。この踊るミシンにつけられた“自殺のための5教程”という副題もそういう意味で読み飛ばしてしまう人もいたと思うが(自分がそうだった)、それにしては印象に残る副題である。

また、踊るミシンには本編の前にブルース・ミュージシャンのエルモアジェームスに関する漫画(君がいなくなったら、僕はダスト・マイブルーム)が挿入されている。
このエルモアジェームスに関する漫画について作者の伊藤重夫氏は、本当は本編の途中に挿入するつもりだったとコメントしており、この二つの漫画を合わせて踊るミシンという作品ととらえていたようだ。

こういったことを考えると、“自殺のための5教程~”というのは副題ではなく、漫画のタイトルそのものなのではないかと思える。つまり、”エルモアジェームスに関する漫画“+“自殺のための5教程”のふたつの作品を収録した漫画を”踊るミシン“と名付けたのではないかと。(短編小説集に別のタイトルをつけるような)

そういう視点でもう一度この“自殺のための5教程”というタイトルと本編のかかわりについて考えてみる。タイトル通りに考えていくと、教程とは”誰かに何かを教えるための、教訓話“といったような意味合いで、その前に自殺のためのという文字にある通り、5つの自殺に関する話を通して何かを伝えるといった意味にとれる。


実際、漫画の中でもいくつかの死が描写されている。(以下に記述)
① 田村の同級生(委員長)の死 :殺人
② 田村が住む借家の大家の死 :病死
③ 田村のバンド仲間(サングラス)の死 :事故死
④ 麗花の死 :事故死?
⑤ 麗花の部活の先輩の死?(昔の恋人?):麗花による殺人?


5番目を?としたのは、明確な死の描写がないためだが、おそらくこの5つが死に関する話なのではないかと思う。しかし、これら5つの死はすべて自殺ではなく、殺人事件や病死、事故死などといったものとして語られていが、タイトルはあくまで自殺の“ための”であり、自殺に“関する”ではないため、これらの死の物語を通して自分の殺し方を考えるといった意味合いなのだと思う。

また、5番目の麗花の先輩についての話はほとんど語られることはないが、ダンスパーティの最後の描写で海岸の向こうに横たわる死体のような描写があり、(麗花によって?)殺されているような演出に受け取れる。

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他に、麗花が自殺を試みるシーンがあるが(やっぱやめたとスッパリあきらめるが)この作品の5つの死はこういった自発的な自殺ではなく、突然にやってくる(自分の意志とは違う)死によって結末を迎えている。

生きている限り死亡率100%だと、ある漫画のセリフにもあったが、
自ら死を選ばずともそういった瞬間は訪れる。この漫画はそういった瞬間に対する様々な予感で満ちており、その刹那性/一過性にある種の青春を重ね合わせることもできる。

(あるいはこの漫画の登場人物たちはその行動やセリフから自らの死をすでに自覚しているようにも見える) 
そうした人たちは7月の海岸に取り残され、田村のみが次の季節へ移っていく。

-つづく