パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

クラウドコレクター

GWは実家に帰っていた。長期連休はいつも実家で本を読んで散歩してレコード屋に通ってハードオフで楽器を買って終わるわけだが今回も同じであった。

 

最近は電車で生まれた街に行って歩きまわって遊ぶのが好きでよくやっているのだが、草むらだった場所や田んぼだった場所が何かの工事を行っていたり、工場ができていたりでこんな田舎でも景色が変わるのだなと思う。

高校生くらいの時にすごく好きだった景色があって、

それは田んぼの真ん中に防風林で覆われた家があってそれを田んぼに稲穂が植えられて水が張られている春から夏頃に田んぼ越しに見たときの景色である。手前の稲穂が風に反応して素早く揺れるのに対し、防風林はゆったりと揺れる。その様々なものが動く様を見るのが好きだった。

高校3年くらいの時に突然その防風林がなくなって本当に悲しかったが、そこには今では太陽光パネルが大量に設置されている。

 

 

地元に帰る前に東京の日本橋丸善で数冊本を買ったのだが、その中で松岡正剛のフラジャイルが面白くて電車の中で夢中で読んでいた。

なぜ、弱さは強さよりも深いのか?なぜ、われわれは脆くはかないものにこそ惹かれるのか?“「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである”

 

稲穂や防風林が"弱いもの"かどうかはわからないが、その葉や稲の一つ一つが風に反応して揺れ、光に反射して自らがそれぞれ光る様はそれを眺めるだけで心が満たされる。

 

 

神は細部に宿る、という言葉はあまり好きではないのだがそれは神という大げさな言葉に違和感があるからだと思う。松岡正剛の本を読んで細部に宿っているそれらはフラジャイルの感覚に近いと感じた。風景の中に自分の場所という視点があるためそういった全体に対する一個の場所として細部の一つとして自分があるのでそこに神がいるという感覚にはなれない。何か意識を持った一つの個体がそれぞれ寄り集まって防風林や稲穂になっているという感覚の方が自分としてはしっくりくる。

 

 

今の実家は割と立地が良いので徒歩圏内に本屋やレコード屋があるので本が尽きると散歩に出て色々買い足す。昔は圧倒的に古本屋派であったが最近は普通の本屋で棚を見ながら全然知らない本を買って読むのが楽しい。全く知らずに買った潮谷験-エンドロールが結構良くてミステリを読みたくなる。平積みされていた相沢沙呼の本も買ってみたがこれも割と良かった。

 

どちらもトリックや話の筋は既視感があって日本のSFやミステリの引用をかなり意識的にしているように感じたが、それを現代の娯楽のレベルにまで持っていっているのは単純に上手いなとおもった。文章の流れや構成のところは粗いが(少なくとも自分は)ミステリにそこまで求めていないので純粋に楽しめた。

 

あとはパトリック・モディアノの"ある青春"が素晴らしかった。これは構成も文も訳も申し分なし。

 

電車以外でも車を運転して地元の好きな場所を巡ったりしていた。

実家の車が新しくなってブルートゥースで音楽が聴けるようになったのでこれまでCDが実家になくて聞けなかったものが聴けるようになって楽しい。音楽は、散歩しながら聴くのと車に乗りながら聴くのではその認識している脳の階層が全く違うのではないかというくらい音楽から感じる印象が変わる。車で聴く音楽は風景の流れが早いのでより映画的というか、カットがパパパッと割られていくようで車を運転している自分の視点と相まってより没入していく感じがする。車と風景と音楽と自分がそれぞれ交わって一つの固体になっているような感じ。

 

 

富山で有名だった巨大なパチンコ屋居抜きのブックオフが去年閉店して駅前にあるビルに新しくできたブックオフに品が移行されたらしいが全く品揃えが悪くてげんなりする。棚の揃え方がかなり適当で漫画コーナーでも大判や文庫サイズが分かりづらく配置されていたり、尻切れとんぼになっていて残念。これから売り場を拡大するのだろうか。

 

地元を歩いていた時、自分が住んでいた頃から建設が進んでいた新興住宅街がほぼ完成していて、元々あった古い家々の間にあった田んぼが全て家になっていた。

自分は過去の風景を知っているのですごく違和感があるのだが、そこでこれから暮らす子供達にはそれが当たり前の景色になるのだと思うと面白い。例えば、元々田んぼだったところには田んぼと住宅地の間位に少し浮き出た壁のような境が設置されているのだが、今はその境を残して両方家になってしまっており、境がなぜそこにあるのか過去を知らない人からしたらわからないだろうと思った(特に気にもしないだろうが)。

NHKとかでよくある古地図を辿って昔の痕跡を辿るというのがあるが、あれを過去側の視点から体験したのが初めてだったので面白かった。自分は大島弓子の四月怪談を知っているので過去は良かったという視点を持つことはない。だからこれから、その謎の境を見て本来とは違った何かを感じる人が出てくれば良いなと思うし、それが自分の可能性だってあるのだと思いたい。

 

ありがとう、心優しき時代劇さん。 -四月怪談-