パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

pAraDisE Is nOt yEt loST(ホン・サンス再考)

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問い:ホン・サンスの映画は難解なのか。

私がホン・サンスを知った作品はハハハで、今はなき富山のフォルツァ総曲輪で見た。(本題とは関係ないがフォルツァ総曲輪復活するようだ。めでたい)あのときは観客が私一人だった。特に前情報もなくその映画館の常連だったのでなんとなく見たのだが、最初はまっっっっっっったく理解できなかった。

まず、ハンディカメラでとったみたいな画質に異様に長い食事シーン。意味不明なタイムスリップネタときわめつけはカメラのズーム。

自主制作でない映画でカメラがあんなに露骨にズームするのを見たのはあの時が初めてで、そういった意味ではとても印象に残った映画だった。映画館を出た後は???みたいな思考のまま近くのディスクビート(富山の老舗レコード屋。お世話になってます)でKip Hanrahanのファーストを見つけて買った。それも今となっては恣意的に思えてくる。※Kip Hanrahanは昔、ジャン=リュック・ゴダールの事務所にいたとか。

いわゆる人物のアップを撮りたいのであれば、カメラをズームするのではなく単純にカットを割って、ひきのカットの後にアップのカットを挿入すれば良いのに、ホン・サンスはズームを多用する。

ズームを使うとなると、その場面を取っている後ろ側(カメラマンやスタッフ側)の存在を感じてしまい、映画という物語からはみ出るような感覚になる(しらける)人も多いと思う。(自分がそうだった)

相米慎二のような長回しとも違い、あのカメラのズームは本当に異様で私はそのあと何年かホン・サンスという監督が気になって仕方がなかった。(田舎だったのでレンタルもないし、他の作品も上映もされなかった)

上京してホン・サンス映画が簡単に見られるようになってからは貪るように見た。

そしてわかったのが、ホン・サンスの映画は時空が歪んでいるということだ。

例えば、三人のアンヌには全く同じシチュエーションのカットを三人の女優を使って反復する。そこに共通の一人の青年が存在しており、その三人の女優とそれぞれ交流する。これはわかりやすく並行世界(量子力学のありえたかもしれない世界)の話に読め、時空の歪みがわかる。(つまり、青年を媒介として世界が分岐している)

また、クレアのカメラ(あまり評価されてないみたいですが私は大傑作だと思います)では、その世界に存在するはずのない一枚の写真が映画の中盤で提示され、なんの説明もないまま映画が終わる。(登場人物である女優キム・ミニの役柄/ストーリーと全く噛み合わない写真が提示される。それが話のミステリーとして機能することもない)

近年では一番の傑作と思われる"それから”ではこういったホン・サンス特有の時空の歪みを逆手にとって、物語の終盤で登場人物が前半の話を覚えていないという演出がされる。ここで、今までのホン・サンスを知っている観客は”これは別の世界線の話だからこの人物は前半の物語を覚えていないのだ”とミスリードされるが、実は単に忘れていただけで、そのあとに笑いながらその出来事を思い出す。

こういったように、ホン・サンスの映画にはその物語と並行するように別の物語が寄り添い、いともたやすくその別の世界線へ移行して、また戻ってくるような演出がなされる。これは映画がいわゆるカットとカットのつながりで成り立っていることをうまく利用した素晴らしい手法だと思う。映画を撮る場合、(バードマンやゼログラビティ等の特殊な例を除いて)その物語の始まりから終わりまでを1カット(つまりずっと一台のカメラを回し続けて)作品にすることはなく、無駄な所作だったり、より効果的な演出としてシーンがカットされ、あるシーンと別のシーンをつなぐことで話が進んでゆく。映画を見慣れた人はシーンがカットされて別のシーンに繋がってもそれは同じ世界の話なんだから単純に時間が進んだ(あるいは回想シーンとして過去の話になった)と理解するわけだが、ホン・サンスの映画ではそうはいかない。カットが割られるということは上記に書いたように別の世界(物語)に移行する可能性が含まれるからだ。

そうなってくるとホン・サンスの映画において容易にカットを割ることはできなくなってくる。

ここで話が冒頭に戻るが、だからこそホン・サンスはアップを撮るときに(難解になるリスクを冒してまで)カメラをズームさせるのだと思う。つまり、繋がった世界として話を進めるためにカットを割らずズームさせる。

映画も音楽も絵画だってそうかもしれないが、創作には編集で人を騙してみせる部分がある。映画で言えば、上記のように分断した時間(別の日に撮ったカットや距離的に離れたロケーションで撮ったカット)を繋げて一つの街の物語としてみせることは当たり前の手法であるし、音楽で言えば、何回も録音した演奏の良いところをつなぎ合わせて編集し、一曲としてミックスする事も多い。冒頭で挙げたKip Hanrahanやその師匠であるテオ・マセロ(マイルスデイビスのオンザコーナーを編集した人)が行なっている音楽で言えば、まさにそういった時間の編集こそ音楽芸術であると提示しているように感じる。

だが、ホン・サンスの映画を見るとそういった編集行為でとりこぼされてしまった別のシーン(可能性)を含めて一つの映画が成り立っていることに気づかされる。そして映画の中で、そういうとりこぼされてしまった話の断片/存在しないとされるシーンが少しだけ垣間見られるその瞬間に私は映画(もとい音楽)の美しさの根源のようなものを感じてしまう。

シュレディンガーの猫ではないが、ありうべき実在、あったかもしれない世界が今ここに存在している世界の裏側にある、そんな可能性を感じることができる作品に私は惹かれる。

楽家のdemo音源の楽しさのように、こうあったかもしれない世界、存在したかもしれない人、家、街、国。そう行った不在の存在によって世界は成り立っているわけで、その不在の存在を形にできる人がいわゆる創造に関わる人であると私は思う。

最初の問いの答えになってないが、、、

とにかくホン・サンスの映画は素晴らしい。そして映画を観たあとにものすごく曲が作りたくなる。そんな映画監督です。