パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

1月のプラネタリウム

お正月休みが2週間もあったので前半は映画をたくさん見たり本を読んだり。

ケリーライカートの日本初上映の2本とヴェンダースのperfect daysがよかった。ヴェンダースの映画は自分の住んでいる墨田区の街が撮られていて、観たのも錦糸町だったので不思議な気分だった。

くるりのライブにも行ったりしたが、まあまあだった(最後のオリジナルメンバーでのさよならストレンジャーはグッときてしまった)

 

バンド練をしてから富山へ帰郷。なんだか熱っぽくてあまり本も読めずに過ごしていたら元日に地震がきて結構大変な感じに。家の耐震対策をしたりしてから東京へ戻る。

 

ヴェンダースの映画に出ていた幸田文の本を数冊読んだり、地元の川を歩いたりできたので満足。

 

去年から志賀直哉夏目漱石を読み返している影響で日本の小説ばかり読んでいる気がする。東京に戻ってからもまだ数日休みなので高畑勲のエッセイとかをパラパラ読んで過ごす。結構悪口が書いてあっておもろい。

 

週末に岡田拓郎とジムオルークの2マンがあったので渋谷へ。その前に埼玉の神社で八方除をしてもらったり、映画館で"カラオケ行こ"を見たりしたので結構疲れてライブは半分無意識だったが、演奏はかなりよかったと思う。

 

カラオケ行こ、はめちゃくちゃよかった。ここ数作の山下敦弘監督作品が全部あたりで今年はまだ二作公開されるようなので楽しみ。

ついでにリンダリンダリンダ天然コケッコーも観直した。(何回見るんだろう)

この人の映画はシーンごとのつながりは気薄であるシチュエーションでの出来事はそのカットの中で完結して、次へは繋げない(ちょっとした小道具で繋げていることもあるが、話の筋としてでてくることはない)その各シチュエーションでの話が積み重なって行くことで映画となる、というのは意外と他ではみない演出のように思う。どんてん生活で日本のジャームッシュという言われ方をしていたようだが、ジャームッシュでも一応起承転結があるが山下敦弘になると起だけ、結だけ、と行った感じで割とぶった切られていたりする。いわゆる主人公に感情輸入をして映画を見る人にとっては出てきた問題(起)が問題のまま放置されて次のシーンへ飛ぶのでスッキリしないと感じる人もいるとは思うが、台詞や大筋ではなく、画面をきちんとみて人物の表情や背景、小道具を見ればその問題が実は解決していることに気づける。だからこの人の映画は客観的に見ることができればすごく楽しめるし、客観的に見ることで笑えたり、心動かされたりするシーンがたくさんある。

 

例えば、天然コケッコーでそよの父親が密会している様子を母親と目撃してしまう話で、台詞や物語の流れ的には目撃した衝撃を引きずったまま終わってしまっているように見えるが、母親の仕草や何も知らない周りの家族の楽しげな会話から母親の中で決着がついているのがわかる。(原作だとそよが、お母さんすげー、となる独白が入るが、映画でそれをやるとかなり説明的になって寒いだろう。)

 

映画を観客を楽しませるものとしてストーリーをそのまま捉えるか、その画面で何が起こっているが観客自身で考えれるかは、その映画を楽しめるかにかなり関わってくるが、そういう観方は自分で会得するしかない。

 

宮崎駿の映画を見て育った子供たちは以外と自分で考えないような教育のされ方になっているとも思っていて、だから千と千尋までがギリギリでハウル以降は物語が破断しているとされているのではと思う。それは演出不足の問題でもあるとは思うが宮崎駿が感情輸入型をやめて客観的に世界を捉えようとしているところの評価は未だなされていないようにも思う。(シンエヴァは前半をなぜか感情輸入型にしてしまっていてがっかりした)

 

ファスト映画を実際に観ている人を知らないので特に思うところもないが、ああいう概念は映画はストーリーさえわかればその真意を図れるという勘違いから来るのだろうとは思う。画面で行われていること、空気、音楽、セリフの音量や間、役者の顔やカットで語られていることは本当に多い。文字である小説を映画にする意味はそういうところにあると思う。

 

文字で語られる文章を映像とするとき、説明的にすればするほどダサくなる。それは文字でこそ発揮される領域だからだ。文章の流れをいかに映像に置換できるか、それこそその映画の見るべき、演出の面白さだろう。

 

カラオケ行こ、ですごく良いなと思ったのが合唱部の後輩で、山下敦弘の得意なこういうやついるよねというキャラが作られていて好ましい。先輩が自分をかまってくれないから(映画ではそんな話は語られないが)、いじけているだけで最後の最後に何も解決していない(むしろ一番大事な合唱に先輩はこないのだが)のに卒業式で一緒に写真を撮ったりする。そのシーンの飛び方やキャラのあり方に自分は映画の面白さを感じる。

 

リンダリンダリンダでも最後の最後、終わらない歌を演奏するシーンでバンドではなく誰もいない校舎を写すシーン。映画の流れとしては雨が降って、文化祭も終わりが近づいて校舎から人がライブ会場である体育館へと集まって来るという演出と思うが、映画を客観的に観ていた観客にはそれまで人のいない校舎で練習をしていた主人公たちの練習風景がフラッシュバックされる。それは一生懸命練習したねといったスポ根的な感情でなく、校舎に音が響いている情景や、夜中に部室に忍び込んで隠れて練習していた楽しさみたいな空気が二重露光して、演奏の音と相まって蘇って来る。これは主人公たちとは別にその映画を観ていた観客にのみ許される感情で、こういう瞬間に立ち会うたび自分は感動してしまう。

 

 

 

たまたま知った梅崎春生という作家がすごくて数冊本を購入して読んでいる。まだ何がすごいか把握はできていないが防波堤という短編がものすごくよかった。

今年も日本の小説を掘ることになりそう。

黄金虫変奏曲

海外帰り、北京空港の乗り継ぎを完璧にこなして3時間くらい空きができたので空港を散歩したり夏目漱石三四郎を読み進めたりしていた。

帰国後、近所のコンサートホールでオラフソンと清水靖晃がそれぞれゴルトベルク変奏曲をやるライブがあったので行った。

オラフソンは鬼気迫る演奏でアンコールもなし、完璧に自分の演奏をしていてすごかった。清水靖晃の方はサキソフォネッツでの演奏で結構和気藹々といった感じだったがいくつかハッとする瞬間もあり良かった。ライブ中はずっとリチャードパワーズの黄金虫変奏曲のことを考えていた。一つの場から来たものがあらゆるものへと変奏する可能性があるということ。

 

youtubeでずっと聞き返したかったdaisy holidayの音響について語っている回が上がっていて聞く。リアルタイムで聴いた時も思ったが、かなり精度の高いことが語られている。

 

コードやメロディではなく音響そのものへのアプローチが優先されるという感覚はわかる(といってもすでに5年前のラジオだが)

 

Frank Ocean以降でデモ音源のような構造の曲が増えたが、それはPANの振り方が左右の二次元世界でなく三次元に配置できるようになったことで、わりと無茶な構造の展開やSEでも成立できるようになった空のように思う。それももう7年前の話で、特に日本ではまたメロディ志向に回帰しているようにも思うが、音数の少なさは世界的な感覚としてまだ残っているだろう。コードもシンプルに展開も少なく、ただし音自体は優しくそして過激に。

 

 

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アメリカの夜

夏目漱石を読み返している。本屋でなんとなく草枕を読んだら文章が素晴らしくて改めて年代順に読むことにした。今は三四郎まできた。

 

草枕を誤読すると、単純な芸術讃歌のように読めるが、夏目漱石自身は草枕の画家のような生き方が正しいとしていない。物語の構成上(というか夏目漱石の文章力によって)、そう言った夏目漱石の視点はまったく描かれないため物語の流れだけを読めば戦争を避けて田舎に逃げた画家の生き方が正しいようにも思う(ラストに戦争に向かう若者を横目に絵のインスピレーションを得たシーンで終わるところもうまい)。だから冒頭の有名な文もそれが夏目漱石の考えのようにも思えるが(世間でもそういく誤読が多いように見える)、あくまであの文は草枕の世界に過去からあるどこかの誰かが考えた格言、という扱いが正しいと思う。ああいう格言が存在する世界でそれを拠り所にしている画家の話、なのだと思う。

 

夏目漱石は世界を作るのが本当にうまい。そこにある世界を見てきたように文章化できるという点では深沢七郎と共通していると思う。

 

虞美人草の中に"太い角柱を2本立てて門という"とかかれた箇所があり、衝撃を受けた。

これはある家の描写なのだが、誰かの視点でその門を描くのでなく、誰でもない(夏目漱石自身でもない)視点で簡潔に風景を書いているところにこの人の本質を見た気がする。

"という"とすることでそこに世間が生まれる。門についてそう思っている世間があり、その中に舞台となる家があって、そこに人物が現れる。すでにある世界にカメラを立てて、そこに映ったものを描くような文章だ。そしてこう言った文章を読んでいると読者は作為性の枠外に連れていかれ、その世界の中の一人として文章を読むことができる。

 

夏目漱石は物語を語る以前に、その世界の存在を強固にすることに注力している。

 

 

この誰でもない視点の描写は夏目漱石のあらゆる物語で出てくるし、特に章の変わり目、場面の変わり目の冒頭に出てくる。映画で言うと上空から世界をとって段々と人物にズームしてくような没入だ。それをそう言う演出を使わずに文章だけであらわせられるのがすごい。

 

三四郎の次は"それから”なので楽しみ。ここからさらにすごくなるから。

(来週から一週間は海外旅行なのでお預けだが)

 

最近書いていた曲が出来上がってちょっと休憩モードであるが、北野武の首が結構良かったり(タイムスリップしたアウトレイジだったが)夏目漱石を読んでいて色々と思うことがあったりして次の曲の構成も出てきたり調子が良い。

 

ライツ、カメラ、アクションという掛け声の後、そこには映画という世界があってそこで動く人物たちは多重露光する俳優という人格とその世界の人格が重なる。カメラの枠外にも世界があると思える作品を見ると自分は物語と関係なく感動するのだが、トリュフォーアメリカの夜はそういった意味でツボすぎて見ると眠れなくなるほど感動する。

 

近所の映画館でロメール作品の上映をしているのでちまちま見に行っているが(DVDで全部持ってるが映画館で見たい)ロメールはあくまで現実の世界と地続きなように感じる。それでもその時代を知らない自分が見てもある種の心地よさを感じれるのはなぜだろうかと考えている。

 

front and back

割と難解な曲を書いていて、自分でこんがらがってきている。

こないだスタジオで新曲を合わせてそれが本当に良くて意欲が湧いているので今の曲も良くしたいという欲もある。

 

最近は暑さも落ち着いて散歩が長くできたり、その合間に音楽も聞けるのでどんどんやりたいことが増えていく。思い出して細野晴臣のトリビュートを聞き直しているがジムオルークの風来坊が本当にすごくて驚く。先人へのリスペクトと当時の環境(ヴァンダイクパークスとの関係性とか)を考慮した音響とアレンジの上に自分の音をならせているのがすごい。

 

マッカラーズの新訳を読んで疲れたので、息抜きに読みやすい夏目漱石草枕を読み始めたがすこぶる良い。内向と外観の交わり方をこんなにスムーズに文章としてかけるのかと驚く。

物を作るのはめんどいよね、というミスると哲学書的なエッセイになるテーマを娯楽に落とし込んでいるのがすごい。(そして哲学的要素が決して欠落していないのもすごい)

 

くるりの映画が配信されているのでちまちま観たり、あんまり聞いたことないけどミッシェルガンエレファントのトップランナーに出た回を観たりして(あたりまえだけど)それぞれのバンドで曲のできかたがあるんだなと改めて思う。

 

バンドの皮をめくっていけば最後はやっぱり人間と人間の係りになるんやなと。

都会の密林の語り部(2)

暗闇を失った街で、どこに謎を探せば良いのか。

夜の公園を散歩する犬たちと、草陰に隠れる猫たちの会話が人知れず寝静まった都会の夜に響いている。風が運ぶ無味無臭の夜の気配に、それでも少しだけ森の木々の深く濃い薫りをかぐ。

 

風が凪いでいる夜に、歩くこと、

遠くにひびく電車の音を、長い長い川の見立てとして目を閉じてみる。

 

 

都会の密林の語り部 (1)

晩夏の夜を歩く。

 

 kip hanrahanの音楽を聴いているとフレーズとフレーズのつながりがないように感じて混乱する。ニューヨークの街のいたるところにマイクを仕掛けて、話し声やサックスプレイヤーの路上演奏や車の喧噪や、闇を流れる川の音が無作為にミックスしたような混沌。共通するのはその音が録音された瞬間に流れていた街の空気が同じということだけだ。それがクリックとして共有されていればある程度の秩序が生まれ、そこに偶然音楽としての形が出来上がるのかもしれない。

 

 8月もすぎて早朝や夜になればある程度涼しくなってきたので、朝と夜にそれぞれ散歩をする。都会は朝でも人はいるが意外と夜の街は静かで、必然的に夜の散歩の方が長くなるし距離も増す。橋の下ではカルガモたちが暗闇の中、身を寄せ合って眠っていて昼間はそれを眺める人の群れで溢れている川辺も今は誰もいない。静かに雲が通り過ぎるが、この街の空には巨大な電波塔があって、その空の高さを遠近法で可視化させる。眠りに落ちた、巨大な倉庫の壁にヤモリが一匹張っていて、蚊の到来を待っている。その下の草むらと壁の間にある鉄柵を野良猫が歩く。

橋横にある階段を登れば住宅街に出られる。kip hanrahanの音楽にはコンガの音が欠かせない。今も耳の中でなっていて、それは安易に密林の雰囲気を醸し出す。

 

 都会にも草むらはあって、それはビルとビルの間に突然現れる。都会は店やビルが潰れては建ってが繰り返されるイメージだが意外とそのまま放置されている土地もある。おそらく国か区の管理下なのだろうが、そういった草むらはロープではなく鉄網が張り巡らされていることも多い。散歩の途中でふとそういった景色に突き当たる時、容易に心が驚かされる。都会の中にある密林は特に夏の間に草の背を伸ばし、その存在感を増している。周りを囲むビルやマンションは木漏れ日とはいかないが巨木のようにその影によって、密林の存在感をさらに際立たせる。

 

 コロナ以降で街には変な動物が増えたように思う。ヤモリだってここ数年で見かけるようになった。ハクビシンのような獣が電線を渡っているところを見たこともあるがその影はハクビシンにしては大きすぎた。電波塔が狂わせる遠近感。

 

 都会の密林に迷い込むには明確なコードがあって、ただ単純に散歩をするだけではいけない。橋を潜り、野良猫を見かけ、ヤモリが張っている壁を見上げその向こうの月を確認する。そして誰もいない住宅街で、不意に光の点滅が一致する信号機を見かける。遠くで電車が高架を過ぎる音に振り返るとそこに密林があるのだ。

 

 この街は埋立地でほんの数百年前には海だったわけだ。だから今見ている密林はもちろん幻覚でこの街の過去の記憶なんかではない。それでも、それはそこにあって、知らない動物たちをその闇の中に隠している。密林は私の頭のなかのあらゆる映画や小説や過去に見た風景や音楽やそういったものたちの遍在によって立ち現れるのかもしれないし、全く別の全然しらない他人のそういった記憶の粒子の結晶なのかもしれない。

 

 誰かが風景を語る時。

そこに風景があるわけではなく。それは音楽と一緒で言葉や記憶や音符やリズムによって変換されている。それらは完璧ではないので元になった風景を完全に再現されることはない。そういったズレ、間違い、ミステイクが新しい風景を生んで、知らない動物たちを闇の中に住まわす可能性はある。

 

 Kip Hanrahanの音楽は突然に終わり、それは街に仕掛けられたテープが切れてしまったように唐突だ。one,past。

 

音楽プレイヤーを見る。その曲名にはIn place of a morale - Geographyとある。

ここはニューヨークではない。それでもその地理的距離に意味はあるのだろうかと思ってみる。

 

PARADISE EXPRESS

山下敦弘監督の1秒先の彼を観た。ぼくのおじさん、ハードコアと自分的にあんまりな感じだったのでほとんど期待せずに観た。前半はやっぱりダメかと思ったが後半に視点が切り替わってからが本当にすごくてずっと鳥肌が立ちっぱなしだった。前半の恋愛映画のパチモンみたいな作りはワザとなのか脚本の宮藤官九郎の影響なのかわからないが、やはり退屈でカットや舞台の作りも安っぽくて全然だなと思っていたら花火が上がって清原伽耶が目覚めるカットがあまりにも良すぎて一気に目が覚めた。遠くに聞こえる花火の音が、京都の街のあらゆる場所へと遍在してゆき、それぞれの時間へと帰結していくその隙間に、映画のカットが入って、時間が止まる。そこで清原伽耶は入り込んだ止まった世界を何の説明もなく受け入れて楽しんでいるのも良い。

そこから先はいいカットの連続で、いい映画をただ眺めるという贅沢で幸せな気持ちになった。正直、前半のフリや後半の回収はほとんど機能していなくて(というか映画には貢献してなくて)いきなり花火のシーンから始まっても自分はこの映画を好きになったろうと思う。もともと台湾映画原作ものなので筋書きはあるのだろうが、あの花火のシーンによって全く別の意味を獲得しているように見えた。(山下敦弘天然コケッコーでもくりぃむレモンでもリアリズムの宿そう言ったことをやれていたわけで、いわゆる企画ものを自分の作品として消化できるのは本当にすごいなと思う)

 

あの花火のシーンをもう一度見るために映画館に行こうかと思っているくらいだ。

 

ゴダールの恋人のいる部屋を買ったので見る。ヌーベルヴァーグ的だがインタビューっぽいカットがやはり良い。