パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

東京慕情

擬似ステレオじゃないミックスのビートルズを聴いている。タックスマンのキックの迫力がすごくて結構驚いた。今聴いても普通に通用するくらいカッコ良い。なぜかラバーソウルだけ見つからなかったがリリースされていないのだろうか。

 

休日はバンド練。なんだかんだで新年一発目。アレンジを固めたりした。

新しいエフェクターがいい感じでバンドの音に馴染んでいた。ベースのエフェクターボードが巨大化していて笑ったが、なんとなく理想の音みたいなものを探る時期になっているのかもしれない。バンド名を決めようと伝える。

 

古井由吉の本を買おうと思って、本屋に立ち寄ったら河出書房の希少本フェアをやっていたのでユリイカ小津安二郎特集や文庫本を買う。

 

U-NEXTでイエスタデイをうたってのアニメがあったので観て見る。全12話くらいでそんな短くて終わるのかという感じだが、連載が長いだけで結構話としては長編ではないのだなと気づく。前半はノルウェイの森みたいだなと思いつつも結構見れてしまったが中盤あたりから普通に人間関係の話になっていくのが勿体無い。傷を負った人はその傷を含めて生きて欲しいというのは勝手な思いだろうか。

 

 

寒暖差のせいか、飲みの場が二回もあったからか今週はちょっと体調が悪い。

バートバカラックを聴いて寝る。

トレーン、ウクバール

クランチ用の歪みエフェクターとしてBD-2を使っていたが高音のジャリジャリ感がしっくりこなくなって来て代替え機を探していた。

 

Jan Rayはいろんな人が使っていてやなので試しにSuperboltのV2を購入。ケンタウルス系との相性が良くボードに組み込む。

結構、歪みが暴れるので設定に悪戦苦闘するが平日の大半の時間を使いなんとかいい音にできた。ボードの頭にコンプ兼ブースターみたいな役割でおくとかなり良くなった。

 

やっといい感じの音にできたので休日は曲作りを再開。結構疲れる。

 

先週に続いて古井由吉の辻を読む。これも素晴らしい。連作短編のようで全然繋がっていない。一つの短編の中で必ず登場人物の視点が一回変わるという共通項があるが、視点が変わっても記憶が引き継がれているような自己の不一致感が不気味で良い。

やはり、決定的なシーンがいくつかあってそこに痺れたりする。(雪のあかりのシーン、辻で耳元で囁かれるシーン、切り開きの道のシーン)

 

辻を読み終わって、ビクトルエリセの新作の流れでボルヘスの伝奇集を読む。

これもやはり面白い。自分の読書では良く在ることだが前後に読んでいた本が自分の中で繋がっていく。辻、伝奇集はモキュメンタリー的な不安感として繋がる。

同時期に動画でマドレーヌの冒険というものを見ていて感動したのも関係していると思う。

誰かの虚構が現実に現れてそれが虚構で無くなる瞬間を見れた気がする。そしてこの動画を見た人たちでこの冒険が虚構ではなく、かつてからそこにあったものとして受け取られればひっそりと着実にそれは現実世界の中へ広がっていくだろう。

 

【マドレーヌの冒険】矢印を描く方へ - For the person who drwas the arrows - YouTube

チャン・リュルの柳川がU-NEXTに上がっていたので観る。劇場で観ようと思っていたのを完全に忘れていた。当たり前だけど大林宣彦の廃市あるいは高畑勲の柳川掘割物語の頃の街ではなくなっていた。駅前が綺麗で驚く。

映画自体もかなり良かった。ズームのあり方や背中から追いかけるカットはイニャリトゥのバードマンを思い出したが。舟で夜の川を渡るシーンの構図が良かったし、中国映画特有のライティングで闇の中に浮かぶ人物の不安定さが出ているのも良かった。

 

フィルムの質感が好きだが、最近はもうフィルムで撮る人はすくなく、それこそビクトルエリセの新作でさえほとんどのシーンの解像度は高かった。三宅唱は相変わらずこだわっているようだ。

そういえば平日にドミューンで浅野いにおがアンリアルエンジンの話をしていて漫画にもつかわれているんだと今更知る。浅野いにおの新作も気になったので買ったが、デデデデの頃と全く違っていて、アクションシーンも(正直うまいとはおもわなかったが)あまりない感じの表現で楽しめた。写真の読み込みだけでなく、3D化することで構図を探れるというのはかなり可能性があるのではと思った。

 

シンエヴァのドキュメンタリーでも似たような形で人体センサーデータを取り込んでいろんなカットを探っていたなと思い出す。

 

最近の漫画も結構そういう視点で見ると絵が平均以上の人が多くなったイメージがある。うまいというより均一化されているというか、見やすい構図や背景、人物の設置の仕方みたいなものがコード化されていたりするのだろうか。最近買った漫画(8月31日のロングサマー)でほとんど同じ絵のカットアンドペーストだけであとは人物の表情や服装を変えるだけという作品を見て(手抜きではあるのだが)それを物語の構造にうまく当て込んで作品を作っていたのが面白かった。

 

AIがいろいろ言われ始めている流れだが、並行して上記の漫画のように物語に依存した作り方で変えはあまり聞かなそうではあるが、技術と作品をうまく組み合わせている人たちも多く出てきているようにも思う。

 

ただ、まだ傑作というようなすごいものは見つけられていないが。

Paradise (NOT YET) Lost

古井由吉の杳子・妻隠を読む。とんでもなく素晴らしい。佐藤泰志の源流は中上健次出なく古井由吉なのかもしれないと思った。狂ってしまうことでしか見えない景色があるということ。杳子と海に行くシーンや妻隠で声だけが反響して映像を浮かべるシーンは痺れた。

 

土曜日は流山おおたかの森シネコンへ。ビクトルエリセの新作”瞳をとじて”を観る。3時間もあるので邪魔されずに観たくて郊外のシネコンを選んだ。朝一の回でもあったので10名客入り的でとても快適に見れた。

映画は傑作であったと思う。

 

冒頭と最後に挿入される完成されなかった映画のシークエンスに映画の魔術をかけられた気分。大画面で見る中国娘の目線、それを見つめる暗闇の中の人々。映画館で瞳をとじる人たちの流れが素晴らしくて画面に吸い込まれるかと思った。

 

たった数十分の完成しなかった映画の中のモチーフたちがその監督や出演者の人生に偏在していき、映画が人生に影響し、同じく人生が映画を変えていく。

名前を変えること、誰かをさがすというモチーフ、悲しみの王という名前の館、そしてそこのファザードに置かれる二つの顔を持つ石像。歳をとったアナは過去の映画と同じセリフを吐き、分節される歌たちは映画と人生の中でそれぞれ友人や家族によって交互に歌われる。ロラに送った小説の名は廃墟。中国娘の視線は劇中の人々ではなく、シネコンにいる私に向けられその向こうに潜むのはビクトルエリセの視線であるその4重に交わらない視線たちが時間を超えて遍在する映画となって映画館の暗闇の中で光っていた。

 

映画がすごすぎて呆然としたまま駅周辺を歩く。

駅から直結してショッピングモールにつながっていてすごく住みやすそう。構造的には三鷹駅に似てるが新しいのでニュータウン的な整った匂いがする(千葉県にはこういう場所が多い)

ショッピングモールに紀伊国屋があったので物色。磯崎新の最後の著書を買う。

つくばエクスプレスで駅に来たとき森が見えたのでそこを目指して歩く。

10分くらいで森を見つけるが特に散歩コースがあるわけではなく、森の外周に沿って歩くと小学校へ突き当たる。その小学校の校庭に沿っていくと千年杉と森の道が少しだけ作られていてそこも歩く。県の管轄域らしくて森の中には入れなかったが、期の間から覗くと結構整備されていて歩けそうではあった。子供達はこの中で秘密の遊びをしているのだろう。

 

1時間ぐらい散歩をして帰宅。ほんとはストップメイキングセンスも観ようかと思ったがこれまで(誇張でなく)100回くらい見てるのでいいやと思って帰る。

 

家で新しい曲のきっかけを探ってロバートグラスパーのリズム構造をバンドでやったら面白いのではと考えていろいろ探る。今週スティーブコールマンのジェネシスというアルバムを買ってずっと聞いているのだが、とても素晴らしいがこれにメロディを載せるのはむずかしいなと思っていたところにロバートグラスパーのリズム構造を思い出してようやく曲のきっかけができる。ほんとは軽く一筆書きみたいな曲を描こうとしていたのだが、それをするとどうしても手グセになってつまらない。自分は結局こういうこねくり回したやり方があっているのだと思う。

 

andymoriをちょっと聞き返したりしていたときに、こういう自分の中で完結したルールに基づいてさらっと書いている(ほんとはちゃんとアレンジしているんだろうけど)曲をかける人は良いなと改めて思った。自分の曲というか、あり方がそのまま作曲のきっかけになっている感じ。この感じを持っている時期は無限に曲をかけるだろうなと思う。(sappukeiの頃の向井秀徳とか)

 

在る光という曲が好きで、この曲のサビでスリーピースのドラム、ベース、ギターのことが歌われ、それは三つしかないので3小節になって、光について歌われて4小節になって円環となる構造。狙ってないというか天然でやっているように思える荒さを残したアレンジも効いていて良い。

www.youtube.com

 

夜に近所のシネコン三宅唱の夜明けのすべてを観る。

かなり良いが、主演の二人の演技というか演出が滑らかすぎて映画を見ている感じにならなくて不思議だった。(別に悪い意味ではない)ワイルドツアーとかの感触に近いかも。プラネタリウムのあたりはなんだかふたつのスピカを思い出して別の意味で泣きそうになった。また読もうかな。

エル・スール

平日に少しドタバタする日があって金曜日は久々に泥のように眠れた。

昔は朝4:00くらいに起きて曲を作るみたいなルーティーンを組んでいたが、それをやめて眠れるだけ眠るようにしたらすこぶる体調が良い。

子供の頃は朝方人間だと思ったがいつの間にか夜型に適した体になっているよう。

 

土曜は朝から髪を切って散歩したり。家で作曲。

ギターのリフを思いついていろいろこねくり回すが、ギターから思いついた曲以上にならなくてアイデアメモ程度にとどめてトラックダウンして一旦保留。

リズムから曲を作ろうと思い、いろいろ音源を探る。

rafael martiniに陶酔していた時期に(今でもよく聞くけど一時期は毎日聞いて動画も見ていた)5拍子、7拍子の流れるような曲を作りたいなと思っていたのでその辺のアイデアでいろいろ考える。rafael martiniの最新作marteloでスフィアン・スティーブンスを参考にしたと言っていて近年のブラジル音楽家たちはやっぱりブルックリンシーンに影響を受けているんだなと再認識。ながれでcome on feel the illinoiseを聞いて打ちのめされる。相変わらずリズムチェンジの部分にやられる。というかリズムチェンジの妙のみで形成されている曲なのになぜこんなに長尺で聴くに耐えれるのか不思議。

 

ブルーノ・ペルナーダスが出てきたときにポルトガルのスフィアン・スティーブンスという紹介がされていてなるほどと思ったが、ミニマルミュージックの影響下にある音楽というところは通ずるが、ブルーノ・ペルナーダスがフィリップグラスの影響が濃いのに対してスフィアン・スティーブンスは明らかにスティーライヒ的な音の積みかたをしている点は結構重要だと思う。(rafael martiniもライヒ的)

あとはwilco関連を聞き返したりしてコードやメロディの変化が少なく構成で持っていく曲で構成をねる。ライヒ的な積みかたをしてリズムチェンジで4/4に持っていくというアイデアを思いついたのでまだまだ試してみたい。

 

リズムを探していた流れでスティーブ・コールマンのThe sign and the sealを買う。まだ聞いていなかった盤だったが一番好きかもしれない。アフロキューバンジャズとM-Baseの融合というだけでなくキューバ民族音楽のリズムが入っていてその上にエレキベースが別の拍子で合わせられる。そのバックトラックにラップが乗るという構成がヤバイ。Date course pentagon royal gardenのリメイク期にやりたかったことはこれだったのかもと思ったり。あと、このやり方でラップが載せられるなら神楽をバックトラックにラップを乗せるのも良いかもと思った。

 

来週にビクトルエリセの新作が公開されるのでエルスールを観かえす。ラストのここより始まるといった終わりかたが好きだ。あくまで父との話は過去のことで南北の問題をこれから娘がどう立ち向かっていくかというところで話が終わるのが良い。この映画で起こっていることは娘にとってある意味ただの回想であり、そのトラウマの影響はこれからの人生で初めて答え合わせされるというところで映画が終わる。

 

新作の方の予告編を見てかなり良さそうなので楽しみだが、3時間ちかくあるのでできれば人の少ないところで見たい。郊外のシネコンでも上映するみたいなので散歩がてら行きたいと計画する。

 

インデヴィジブル・プロジェクション

島口大樹の一番新しいやつをハードカバーで読む。なんでこんな村上春樹のパクリ見たいな話にしたのだろうと思う。

 

同時読みしていた梅崎春生のボロ家の春秋が素晴らしくて夢中で読む。プロットだけ見るとつげ義春の漫画みたいなイナタイ感じの話ではあるのだが(知り合いでもない男と同居する話は李さん家を思い出したが)、話の持っていきかたというか文章の流れが小説でしか導けない形のもので読んでいて気持ちが良い。何か啓示を得られるような小説家ではないのかもしれないがとても好ましい物語をかける人だなと思う。つげ義春も影響を受けてたりするのだろうか。

 

平日にニュースでサンプリングについて騒いでいる人がいて、こういう話ってずっと出続けるのだなと思う。(AIの話で再熱しているのかもしれんが)

 

音楽を全く無からつくれることはとても難しい。何かしらのインスピレーションが必要でそう言った意味でサンプリングというものは絶対に無くなりはしない(騒いでいるのは録音物へのことのようだが、派生してその曲の言葉やメロディにまで話が飛んでいてそれは違うのではと思った次第)自分の曲が100年後も残っていると思っているのだろうか。

それよりかは自分の曲からインスピレーションを受けた人が新たに曲を紡いでくれた方が自分ははるかに嬉しい。

 

近所の本屋事情が良くて駅前ビルの親書書店の品揃えが良いのと数年前にできたセレクト型の本屋が相変わらず素晴らしい品揃えなので徒歩圏内で読みたい本がたくさん見つかる。(棚を見てまったくしらないけど読んで見たいと思える本が見つかる瞬間が一番楽しい。)

 

ディーノブツァーティの読んだことないやつやジャックデリダの講義録、古井由吉を購入。ついでに本屋の人と少し話したり、散歩がてらに寄ったので帰り道にバンド名のアイデアが浮かんだり、かなり収穫があった。数年前にできた本屋は雑誌などで紹介されたからか最近はお客も多い。長く続けて欲しい。

 

バンド名はずっと悩んでいたが、今回思いついたものがかなり良さそう。次のバンド練で話したい。

 

週末は作曲。

年末から作っていた曲をボツにして別の曲を作り直す。

年末に少し時間ができたので軽くギターで作った曲だったのだが、ギターの手グセの感じが嫌で一旦ボツに。またいつか別のアイデアと結びつけば良いなと思う。

 

去年は自分が完全に良いと思える曲を2曲もかけてとても充実していた。(こういう曲は数年に1曲くらいだった)この頃は、気に入った曲のリズムをコピーしてその上で自分のコードを乗せて曲を展開させていくというのをよくやってる。

手グセ以外の展開が色々思いつくし何より作業がとても早くなって良い。

 

カエターノヴェローゾが2006年くらいに出したオルタナっぽいアルバム(CE)が好きでまた聞いている。音は確かにオルタナっぽいギターの曲が多いがメロディの結句箇所がずれていたりとても面白い。はっぴいえんどにおける大瀧詠一のアプローチに近いと思う。

 

2月3月と見たいライブがいくつかあって全部平日なのでどうやって予定を開けようかいろいろ先まで計画を立てていて、もうちょとしたら春なのだなと思ったりする。散歩中も暖かい日が多くなってきた気がする。散歩コースの公園の木々が剪定されて空が広くなったが木漏れ日がなくなって寂しい。電線もない場所なのになんで切ったのだろう。

 

 

 

レス・ザン・ゼロ

平日の散歩中に新しい曲のアイディアが出てきてメモる。

週末は雨だったので家にこもってギターでいろいろ試すが難航。

バラバラの三人の演奏を合わせる合奏というものをやってみたい(文字にすると陳腐だが、、)

 

この間読んだ高畑勲のエッセイで、主人公への感情輸入型の映画と客観視点を持った映画について書かれていていろいろ考えたりする。

 

赤毛のアンを見てすごいと思ったのは、最初の方の話でアンがグリーンゲーブルズに住んで良いと決まるところの話の流れで、話の途中でマリラがアンを家に置こうと決めるのだがそれをアンに伝えることはしない。それはマリラとマシューと観客にのみわかっている事実でアンは最後の最後でその決定を聞いて喜ぶという流れ。主人公への感情輸入型の演出をするのであれば観客にもその事実は伏せて最後までハラハラさせる方が感動は高まるだろうが高畑勲はその選択をしない。つまり、グリーンゲーブルズに住むという結の部分が重要なのではなく、そこへ至る流れ、人物たちの心の動きこそが描きたいことなのだということだろう。この演出がすごいのはたったこれだけの組み替えで観客の視点が客観的になることだろう。アンはそのキャラクター性からある意味過剰に思い入れされてしまう可能性もあるし、全く理解されない可能性もある。だから感情輸入型にしてしまうとそれはアンのキャクターの話に集結してしまい、いかにアンが素敵で素直で心が綺麗でといったところから一歩も出れなくなるだろう。しかし、客観性を持たせるというたった一つの演出の組み替えによってアンが変な子であり、それがある時はユーモアに、ある時は聞き分けのない子供として、ある時は大人にはない視点を持った一人の人間として見ることができる。それはマリラに対してもマシューに対しても同じで、観客はそういったひとたちを窓の外から眺める庭の木々のような視点になる(雪の女王だ)

 

音楽の感想としての常套句で、あのバンドがいたから生きる勇気が出たといった表現があるがそれは正確ではないと思っていて、生きる勇気を出せたのは聞いた観客側なのであってその曲のそのバンドの良さに気づいたのも観客であるあなただということだ。音楽が提示しているものが正解として主観的に入り込んでしまうといつか破綻する。人生はその曲の中で描かれること以外で多くが成り立っているのだから。

 

逆に客観視点があればたとえある曲の良さがわからなくても、いつかわかる日がくると思える。(いつかは想像を超える日がやってくる)

 

何かを作る側の人間として最も恥ずかしいのはその作品、曲の良さを理解された上で陳腐であると思われることだろう(客観性を持ってきちんと否定される)音楽を聴いていてこういう感覚になった曲やバンドは自分はもう二度と聞けない(そんなものにかける時間はないのだから)

 

天然コケッコーから駅から5分花に染むまで順番に読み返していて

やはり天然コケッコーは異質であり傑作だと思った。

どれも天才的な作品ではあるが100年後残るとしたら天然コケッコーだろう。あそこまでストーリーに恣意さがなく、客観性を持ってキャラクターを描けるのは脅威だと思う。

カールテオドアドライヤーの映画を見返したりして、奇跡のラストあたりの話の流れであったり、リンダリンダリンダのコメンタリーを聞いていて山下敦弘が自分の演出がわかりづらいよなと言っている箇所だったり、人は意外と与えられることに甘えていて自分で考えない生き物なんだなと改めて思う。自分もドライヤーの奇跡を久々に見て葬式のシーンで普通に泣いていたのだが、あそこは演出としてなくというよりは各人物の交わらなさに絶望するという感情の方が正しいようにあとで思った。だから最後に奇跡は起こるのだし、その瞬間の子供の笑い方が異様で無垢なのだろう。

 

読書に疲れた時にミステリを読んだりするが、普段読んでいる本と違って数時間で読み終わってしまう。それは結末があって、なんとなく決着がつくとわかっていて、キャラもわかりやすく感情輸入できてある程度読み飛ばしもでき、ほどほどに良い気持ちにしてくれるから続けて読めるといったことなのだろう。

それが良い悪いではないが、自分が本当に何かを考える時に、ほとんど全く(サブカルの引用くらいでしか)そう言った作品からの影響は役には立たない。

その意味でも現実逃避には最適なのかもしれないが。

1月のプラネタリウム

お正月休みが2週間もあったので前半は映画をたくさん見たり本を読んだり。

ケリーライカートの日本初上映の2本とヴェンダースのperfect daysがよかった。ヴェンダースの映画は自分の住んでいる墨田区の街が撮られていて、観たのも錦糸町だったので不思議な気分だった。

くるりのライブにも行ったりしたが、まあまあだった(最後のオリジナルメンバーでのさよならストレンジャーはグッときてしまった)

 

バンド練をしてから富山へ帰郷。なんだか熱っぽくてあまり本も読めずに過ごしていたら元日に地震がきて結構大変な感じに。家の耐震対策をしたりしてから東京へ戻る。

 

ヴェンダースの映画に出ていた幸田文の本を数冊読んだり、地元の川を歩いたりできたので満足。

 

去年から志賀直哉夏目漱石を読み返している影響で日本の小説ばかり読んでいる気がする。東京に戻ってからもまだ数日休みなので高畑勲のエッセイとかをパラパラ読んで過ごす。結構悪口が書いてあっておもろい。

 

週末に岡田拓郎とジムオルークの2マンがあったので渋谷へ。その前に埼玉の神社で八方除をしてもらったり、映画館で"カラオケ行こ"を見たりしたので結構疲れてライブは半分無意識だったが、演奏はかなりよかったと思う。

 

カラオケ行こ、はめちゃくちゃよかった。ここ数作の山下敦弘監督作品が全部あたりで今年はまだ二作公開されるようなので楽しみ。

ついでにリンダリンダリンダ天然コケッコーも観直した。(何回見るんだろう)

この人の映画はシーンごとのつながりは気薄であるシチュエーションでの出来事はそのカットの中で完結して、次へは繋げない(ちょっとした小道具で繋げていることもあるが、話の筋としてでてくることはない)その各シチュエーションでの話が積み重なって行くことで映画となる、というのは意外と他ではみない演出のように思う。どんてん生活で日本のジャームッシュという言われ方をしていたようだが、ジャームッシュでも一応起承転結があるが山下敦弘になると起だけ、結だけ、と行った感じで割とぶった切られていたりする。いわゆる主人公に感情輸入をして映画を見る人にとっては出てきた問題(起)が問題のまま放置されて次のシーンへ飛ぶのでスッキリしないと感じる人もいるとは思うが、台詞や大筋ではなく、画面をきちんとみて人物の表情や背景、小道具を見ればその問題が実は解決していることに気づける。だからこの人の映画は客観的に見ることができればすごく楽しめるし、客観的に見ることで笑えたり、心動かされたりするシーンがたくさんある。

 

例えば、天然コケッコーでそよの父親が密会している様子を母親と目撃してしまう話で、台詞や物語の流れ的には目撃した衝撃を引きずったまま終わってしまっているように見えるが、母親の仕草や何も知らない周りの家族の楽しげな会話から母親の中で決着がついているのがわかる。(原作だとそよが、お母さんすげー、となる独白が入るが、映画でそれをやるとかなり説明的になって寒いだろう。)

 

映画を観客を楽しませるものとしてストーリーをそのまま捉えるか、その画面で何が起こっているが観客自身で考えれるかは、その映画を楽しめるかにかなり関わってくるが、そういう観方は自分で会得するしかない。

 

宮崎駿の映画を見て育った子供たちは以外と自分で考えないような教育のされ方になっているとも思っていて、だから千と千尋までがギリギリでハウル以降は物語が破断しているとされているのではと思う。それは演出不足の問題でもあるとは思うが宮崎駿が感情輸入型をやめて客観的に世界を捉えようとしているところの評価は未だなされていないようにも思う。(シンエヴァは前半をなぜか感情輸入型にしてしまっていてがっかりした)

 

ファスト映画を実際に観ている人を知らないので特に思うところもないが、ああいう概念は映画はストーリーさえわかればその真意を図れるという勘違いから来るのだろうとは思う。画面で行われていること、空気、音楽、セリフの音量や間、役者の顔やカットで語られていることは本当に多い。文字である小説を映画にする意味はそういうところにあると思う。

 

文字で語られる文章を映像とするとき、説明的にすればするほどダサくなる。それは文字でこそ発揮される領域だからだ。文章の流れをいかに映像に置換できるか、それこそその映画の見るべき、演出の面白さだろう。

 

カラオケ行こ、ですごく良いなと思ったのが合唱部の後輩で、山下敦弘の得意なこういうやついるよねというキャラが作られていて好ましい。先輩が自分をかまってくれないから(映画ではそんな話は語られないが)、いじけているだけで最後の最後に何も解決していない(むしろ一番大事な合唱に先輩はこないのだが)のに卒業式で一緒に写真を撮ったりする。そのシーンの飛び方やキャラのあり方に自分は映画の面白さを感じる。

 

リンダリンダリンダでも最後の最後、終わらない歌を演奏するシーンでバンドではなく誰もいない校舎を写すシーン。映画の流れとしては雨が降って、文化祭も終わりが近づいて校舎から人がライブ会場である体育館へと集まって来るという演出と思うが、映画を客観的に観ていた観客にはそれまで人のいない校舎で練習をしていた主人公たちの練習風景がフラッシュバックされる。それは一生懸命練習したねといったスポ根的な感情でなく、校舎に音が響いている情景や、夜中に部室に忍び込んで隠れて練習していた楽しさみたいな空気が二重露光して、演奏の音と相まって蘇って来る。これは主人公たちとは別にその映画を観ていた観客にのみ許される感情で、こういう瞬間に立ち会うたび自分は感動してしまう。

 

 

 

たまたま知った梅崎春生という作家がすごくて数冊本を購入して読んでいる。まだ何がすごいか把握はできていないが防波堤という短編がものすごくよかった。

今年も日本の小説を掘ることになりそう。