パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

Paradise (NOT YET) Lost

古井由吉の杳子・妻隠を読む。とんでもなく素晴らしい。佐藤泰志の源流は中上健次出なく古井由吉なのかもしれないと思った。狂ってしまうことでしか見えない景色があるということ。杳子と海に行くシーンや妻隠で声だけが反響して映像を浮かべるシーンは痺れた。

 

土曜日は流山おおたかの森シネコンへ。ビクトルエリセの新作”瞳をとじて”を観る。3時間もあるので邪魔されずに観たくて郊外のシネコンを選んだ。朝一の回でもあったので10名客入り的でとても快適に見れた。

映画は傑作であったと思う。

 

冒頭と最後に挿入される完成されなかった映画のシークエンスに映画の魔術をかけられた気分。大画面で見る中国娘の目線、それを見つめる暗闇の中の人々。映画館で瞳をとじる人たちの流れが素晴らしくて画面に吸い込まれるかと思った。

 

たった数十分の完成しなかった映画の中のモチーフたちがその監督や出演者の人生に偏在していき、映画が人生に影響し、同じく人生が映画を変えていく。

名前を変えること、誰かをさがすというモチーフ、悲しみの王という名前の館、そしてそこのファザードに置かれる二つの顔を持つ石像。歳をとったアナは過去の映画と同じセリフを吐き、分節される歌たちは映画と人生の中でそれぞれ友人や家族によって交互に歌われる。ロラに送った小説の名は廃墟。中国娘の視線は劇中の人々ではなく、シネコンにいる私に向けられその向こうに潜むのはビクトルエリセの視線であるその4重に交わらない視線たちが時間を超えて遍在する映画となって映画館の暗闇の中で光っていた。

 

映画がすごすぎて呆然としたまま駅周辺を歩く。

駅から直結してショッピングモールにつながっていてすごく住みやすそう。構造的には三鷹駅に似てるが新しいのでニュータウン的な整った匂いがする(千葉県にはこういう場所が多い)

ショッピングモールに紀伊国屋があったので物色。磯崎新の最後の著書を買う。

つくばエクスプレスで駅に来たとき森が見えたのでそこを目指して歩く。

10分くらいで森を見つけるが特に散歩コースがあるわけではなく、森の外周に沿って歩くと小学校へ突き当たる。その小学校の校庭に沿っていくと千年杉と森の道が少しだけ作られていてそこも歩く。県の管轄域らしくて森の中には入れなかったが、期の間から覗くと結構整備されていて歩けそうではあった。子供達はこの中で秘密の遊びをしているのだろう。

 

1時間ぐらい散歩をして帰宅。ほんとはストップメイキングセンスも観ようかと思ったがこれまで(誇張でなく)100回くらい見てるのでいいやと思って帰る。

 

家で新しい曲のきっかけを探ってロバートグラスパーのリズム構造をバンドでやったら面白いのではと考えていろいろ探る。今週スティーブコールマンのジェネシスというアルバムを買ってずっと聞いているのだが、とても素晴らしいがこれにメロディを載せるのはむずかしいなと思っていたところにロバートグラスパーのリズム構造を思い出してようやく曲のきっかけができる。ほんとは軽く一筆書きみたいな曲を描こうとしていたのだが、それをするとどうしても手グセになってつまらない。自分は結局こういうこねくり回したやり方があっているのだと思う。

 

andymoriをちょっと聞き返したりしていたときに、こういう自分の中で完結したルールに基づいてさらっと書いている(ほんとはちゃんとアレンジしているんだろうけど)曲をかける人は良いなと改めて思った。自分の曲というか、あり方がそのまま作曲のきっかけになっている感じ。この感じを持っている時期は無限に曲をかけるだろうなと思う。(sappukeiの頃の向井秀徳とか)

 

在る光という曲が好きで、この曲のサビでスリーピースのドラム、ベース、ギターのことが歌われ、それは三つしかないので3小節になって、光について歌われて4小節になって円環となる構造。狙ってないというか天然でやっているように思える荒さを残したアレンジも効いていて良い。

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夜に近所のシネコン三宅唱の夜明けのすべてを観る。

かなり良いが、主演の二人の演技というか演出が滑らかすぎて映画を見ている感じにならなくて不思議だった。(別に悪い意味ではない)ワイルドツアーとかの感触に近いかも。プラネタリウムのあたりはなんだかふたつのスピカを思い出して別の意味で泣きそうになった。また読もうかな。