パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

砂の女かもしれない

例えば知らない街にいって、そこにある路線バスに乗ったとする。

そうすると高確率でなんだかよくわからない名前のバス停に行き当たる。

 

電車であれば地名が駅の名前になるが、路線バスの場合、停車場所が同じ地名の中に複数あるので、より具体的な場所の名前がつく。

 

〇〇医院前とか、〇〇センター前とか、〇〇スーパー前とか。

 

病院みたいなどの街にも共通の施設であれば予想がつくが

地方特有のスーパーだったり、その地区にしかないお店の名前がついたバス停などは初めて訪れた人にはなんだかよくわからない名前に聞こえるだろう。

 

そして、そういう場所が時代の流れで閉店していて名前だけがバス停として残っている場合がある。

 

また、それはいつか街の人でも、どんな場所だったか思い出せなくなるような、意識のアクセスができなくなるような場所になり、変な名前だけが一人歩きするようになるのだろう。

 

この間、写真家の芳賀日出男の神様たちの季節を読んだ。

折口信夫の研究内容を辿って全国のお祭りの写真とそのお祭りのルポのようなエッセイのような文章が書かれた本であった。

その中で、風流という言葉があってお祭りは時代に合わせて通俗化(風流なもにになり、観光客を呼び寄せる)したり、神聖化したり(内神楽のように外部の人には見せない秘儀のようになる)するという話があり、なるほどなぁと思った。

 

自分の生まれた地域にも獅子舞の伝統があり、自分は子供の時に獅子獲り(獅子をなだめる、眠らせる童子)をやっていたことがある。

 

4つほど舞いがあって口述伝承でそれをならったのだが、

その踊りも、どういう目的でどんな意味があるかというところまでは、先生だった長老たちも誰も知らなかった。

 

つまり、舞いの意味性が消えて、季節の行事ごととして獅子舞が存続していた。

もっというと、獅子舞はその年にお祝い事があった家に出向いて舞い、その家からはお礼としてお酒と料理とご祝儀をいただく。獅子舞の関係者たちはどちらかというとその食事とご祝儀が目当てだったように思う。(自分も小学生ながらその数日で数万円くらい稼げた)これはやはり、名前だけが残り、その意味性がなくなった状態で通俗化した結果なのだろう。(”さよなら心やさしき時代劇”という大島弓子漫画の言葉を思い出す)

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大島弓子-四月怪談。傑作です。



 

ただ、今になってよく考えてみると獅子舞は以下のような手順で執り行われていた。

 

まず獅子は地域の神社に祀られていて、一番最初にその神社で童子が舞い、獅子にその地域のスピリットを呼び込み、一緒に地域の家々を回ってそのお祝いと厄災を祓うよう頼み込む。

それが終わると一旦地域の公民館に戻り、獅子と一緒に一晩食べて飲み明かす。

ここで異界のスピリットである獅子が現実世界の住人たちと一緒に食事をすることでと目に見えないスピリットを現実世界へよりリアルに具現化しているのだろう。

 

そして次の日、人とスピリットが同一化した状態でようやく地域の家に出向き舞いを披露する。

 

この流れからして、地域に潜む厄災としての獅子を鎮めるのではなく、獅子の力をかりて厄を払ってもらうというのが祭りの本位だろうと思う。

しかし、その舞いのなかで最も難しい(そしておそらく最も近代に作られた)舞いは、童子の舞いに見とれさせて最終的に獅子を狩るという内容だった。

つまり厄払いとは関係ない内容なのだ。

 

これはおそらく、獅子舞が見世物として歌舞伎化、エンタメ化したのだと思う。(厄払いの舞から観客へ見せるためのストーリーへと変貌した)

 

www.youtube.com

 

youtube折口信夫について中沢新一が語る動画があったので見たのだがこれがすごく面白かった。

 

中沢新一のカイエソバージュでも語られているが、別化性能と類化性能についての内容にすごく納得した。人と熊は違うものとして語るのは簡単であるが(というか現代人のほとんどは人と熊は別物ととらえているだろう)、人と熊の類化をすることでその見えないつながりを感じること(同じ地域に暮らす、同じ魚を食べるといったこと)、こういった別個のものをつなぎ合わせる領域横断的な思考が芸術を生み出す想像力なのだと中沢新一はいう。

この世のものではない何か(感覚)をこの世のものとして生み出すこと。それ自体が創造ということだろう。(神楽のお面などをみると人でも動物でもないその中間のような造形のものが多くある。獅子だって存在しない生き物だ。)

 

自分はラカンの性格類型でいうと完全なINTJ型であるためこの類化の思考の感覚がすごくしっくりくる。

 

なんの繋がりもないものの共通性を見つけ出した時に一番興奮するし、いい曲ができるのは基本的にそういう時だ。(無理やり作ることもできるが楽しくはない)

 

世間の流れに合わせて人と獅子を別のものとして分けてしまった(退治してしまった)獅子舞は今ではもうその行事ごとなくなった。

これは単に少子化が原因かもしれないし、寓話のように取り扱いたくはないが、

自分が子供の時に、すでに見えなくなっていた舞いの意味性、獅子と人との類化をもしあのときにすこしでも気がついていたら、あの獅子舞を存続させることができたのかもしれない、と今になって少し思う。

 

獅子舞の練習をしていた3月になるといつもあの時の夜の感覚を思い出す。

少し切ない