磯崎新の”建築における「日本的なも」”が面白くってずっと興奮しながら読んでいる。
桂離宮の章で、京都が虚構的だというセンテンスがありとても共感する。
京都の御所を歩いた時、その空っぽさに驚いた。
一般で立入れる場所にあるものはただの砂利道で
御所の中もなにか観光客を喜ばせるようなものはないように見えた。
その静けさがとても心地よかったのを覚えている。
磯崎新を読んでいて色々思い出してきたので、整理を始める。
手始めに野崎まどのKnowを読み返す。
前半の知るということへの捉え方が面白く、引き込まれるが
後半から異能力バトルになってしまうので少し冷める。
小説は虚構だが寓話として成り立ちはする。
現実世界でもこれだけ検索がしやすくなった生活において
知らない(と思える)ものに出会える機会は少ない。
知らないとしても調べれば知れる(と勘違いできる)のだから。
外部情報に絶対的な信頼を置いている人がどれだけいるかはわからないが、
ネットや本に書かれている情報がそのまま現実世界のトレースであるという考え方はつまらない。ネットに立ち上がっているのはあくまで情報の集合体でその隙間に描かれなかった、見られなかった、知られなかった事柄がこの世には溢れている(はずだ)
ネットに載っていないものは存在しないに等しい、とするような世の中は完全に閉じてしまっているのであとはそのコロニーの中で腐っていくのを待てばいい。その腐葉土から新しい知らないものが生まれるだけだ。
自分は小学生の時に両親が神様ではないことに気づいて(世の中の全てを知っているわけではない)視点が固定されずに済んだ。この人たちの知らないことを知れる可能性があるのだと知った。
休日に誘われて松任谷由実の展示に出かける。
帰りに友達と話してレコード転売の話になる。
思えばBookoffでも最近はレア盤や貴重な本を相応の値段で売るようになった。
昔はどんな素晴らしい漫画でも100円で買えたのに。(岡崎京子や黒田硫黄を100円で買い漁ったのは良い思い出)
名盤に音楽的な価値があるとして、その値段は誰が決めるのだろうか。
(単純に需要と供給の話ではない)
何かのyoutubeで元森は生きているの岡田拓郎がビルエヴァンスのワルツフォーデビーは最近まで価格が沸騰していなかったのは、あまりに有名すぎて誰も欲しいと言えなかったという小話をしていてなるほどと思った。
音楽をdigる方法として、もし値段を参照しているのであればそれは競取り屋と同じだろう。そういう奴らをBookoffの棚の前に連れて行って何かを選べと問うて、何を選べるのだろう。
視聴をする、ジャケを見る、ネットの評を見る、そして購入して自分で聴く。
そういった行為の中で自分にとっての価値を作るしかない。
先週、橋本みつるの漫画を全て揃えることができた。
これもめちゃくちゃに値段が高騰していたが
ネットを半年くらい監視していてこの間たまたま100円で数冊購入することができた。
ありがたいことに漫画自体は高騰する価値があるほどの傑作だと思えた。そして多くの人に読まれるべき作品だった。
高額なものを買って悦に浸るのではなく、自分にとって刺さるものか(その可能性があるのか)で判断するようにしなければ虚構の"知っている"という妄想に取り憑かれた輩になってしまうので気をつけたい。