パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

LEFT BANK

堀江敏幸の海岸忘日抄を読んでいる。流れる川にとどまって暮らすという矛盾は矛盾ではなく都市生活者の地下鉄とマンションの対比にも思える。

対岸は対岸として認識するためには右岸/左岸側のどちらかに属する必要があり、ビルなどから俯瞰するとその左右性は統合され一つの川となる。

電車の上り線ホームから見る下り線の電車はアクセスの難しさから川のメタファーとして機能する。

 

対岸

土曜日の朝一でめちゃくちゃ天気が良かったので髪を切ったついでに電車で荒川へ向かった。

いつもは自転車で来る場所に電車で来たので視点や風景の画角が変わって面白い。土手の構造も徒歩でないとアクセスできない階段があったりしてより多層的なイメージが頭の中に生まれる。

土手の端っこで本を読みながら少年野球の練習を見ていたのだが、こういうことを過去にも(確かに)やっていてその時の感覚が蘇ったりするのだが具体的な年齢や場所が思い出せなかった。というよりも思い当たる場所が多すぎて特定ができなかったという方が近いかもしれない。

 

東京で外で一人になれる場所は本当に少ないので、そういった場所を見つけるとGooglemapに印をつけているが、今見てもとても少ない。

 

だからそういった土手の景色や草の匂いや、晴れた日に外で本を読む感じは地元の富山での景色とリンクしている可能性が高い。

 

一時間ぐらいまったりして家に帰る。

土日で自分の曲を仕上げてプリプロまで終わったので、前作った曲のアレンジを変えようと色々考えたりする。最近久々にGreat3を聞き返していてromanceを一時期ずっと聞いていた時の感覚を思い出す。

"影"のアレンジを少し引用できるなと思って色々と試していたら、別の曲のアイディアが出てきたりしてまだ作曲に没頭する期間が続きそう。

 

自分のことをしているとあまり映画が見れなくなるので、休憩時は本の量が増える。

漫画でひらやすみの新刊が出ていたので読んだら、美大生が高野文子氏にかぶれて漫画を書いてしまう話が出てきて今の十代にとって高野文子ってどういう扱いなんだろうと疑問に思ったりした。自分の世代でも新刊もなく、知名度や評価の高さのわりに、意外とアクセスのしづらい漫画家なのではと思ったり。

チェーンソーマンを読んだ時五十嵐大介氏の引用をしていたり、日本の漫画が日本の漫画を引用する時代になったんだなと思ったが、高野文子を引用するような人が出てきたりしたらどうなるのだろうか。

 

西村ツチカ氏が出てきた時に漫画の帯に高野文子も絶賛みたいなコメントがあったりしたが西村ツチカのうまさと高野文子のうまさは別物で、そういう意味で影響を上手い具合に回避しているなと思った記憶がある。物語の冷静さ(登場人物への容赦のなさ)という意味では市川春子氏が近い気もするが、高野文子漫画は冷静というよりも死んでいる人の目線のような怖さを感じたりする。

 

漫画を読み返すモードになってきている。