パラレル通信

composer/Gaspar Knowsの中のひとり/神楽音楽研究中。 平日は某ゲーム会社にいます 連絡→outtakesrecords@gmail.com

Forever Dolphin Love

ジュリアングラッグの森のバルコニーがあまりに良くて読書欲が復活した。

森のバルコニーを読み始めた時はブツァーティのタタール人の砂漠を少し思い出したが、あれとは違い確実に物事が進んでいく様が描かれる。ただしそこの俯瞰した視点はなく、あくまで語り手の主観のみで物語が語られるため全体像は掴めぬまま出来事の連続だけで話が進んでいく。ある時は幻想的なシーンを幻想的な主観のまま描き、いつの間にか現実に直列的に推移していく様がすごい。それは森と都市の境目にあるフロンティアラインを超えたり戻ったりする散歩そのもののようだ。

 

 

ジュリアングラックのシルトの岸辺も買って読んでみたがこっちも同じような設定でなんとなくこの人の書きたいことがわかったような気がした。

フランス文学はあまり馴染みがないが、パトリックモディアノのある青春も少し前に読んで良かったので色々読んでみたい。(サガンウェルベックくらいしかきちんと読んでいない)

 

流れで復刊していたカーソンマッカラーズの悲しき酒場を購入。本当に素晴らしかった。少し前に"心は孤独な狩人"が村上春樹訳で出たのでその流れの復刊なのかもしれないが他の作品も出して欲しい。マッカラーズの文を読むと、映画や漫画では表せられない文字で書くことによってのみ導かれるような感情になる(気がする)。愛について描かれた小説群は(アメリカ文学的と言ってしまえばそうだが)、起承転結が崩壊して、ただあるがままに状況が描かれるがその物語の時系列の配置の仕方、決定的な一文、愛という全く答えのないものに対して(小説の人物に託しながらであるが)ある見解を示そうとする試みを文章の力でのみ達成しようとしているところに驚く。

おそらくこのままの文章でナレーションを入れて映画にしたとして同じ感覚にはならないだろうと思った。久々に言葉の力に触れて感情が揺さぶられた。(その力は強くもあり弱くもある)

 

そういえば、GWの終盤に高野文子のおともだち、棒がいっぽんを読み返して、

これは漫画でしかできないなと思ったがそういう特定のフォーマットに依存した作品に自分は惹かれる傾向があるのかもしれない。それはあるフォーマットの完成形ではなく、そのフォーマットを使ってできる表現の拡張行為といった意味合いに近い。棒がいっぽんでいえば、記憶テープをうどんに置き換えてうどんを潰すことでその記録された時間の細部を見るという流れがあるが、それは文章では伝わらないだろう。うどんを潰すと記録された映像が拡大されるという荒唐無稽な本来は文章の範疇のものを漫画でみせること(それができると証明すること)でしか得られない感覚。

 

松岡正剛のフラジャイルの流れで、Jホラーをフラジャイル的に見たらどうなるかと思って"ほんとにあった怖い話"の初期DVDを購入。

夏の体育館や霊のうごめく家などを見て、人間に直接介在してこない霊の弱さとその存在感自体の強さの矛盾する形にフラジャイル的なものを感じる。黒沢清あたりにも引き継がれるこう言った手法はホラーというジャンルの中で映画の撮影手法でのみ表現できる儚さだと思う。文章には文章のやり方があると思うが、霊がすっと現れて、そこにいる、という感覚を撮影技法としてみせるやり方に映画の面白さとフラジャイル的な感覚が混じってJホラー特有のフォーマットが出来上がっているなと感じる。

 

音楽でいうとBloodthirsty Butchersの燃える、想いという曲を聴くとこれは音楽以外にはなれないものだなと強く思う。

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めちゃくちゃかっこいいイントロが本当にイントロでしか出てこず、

訳のわからないブレイクを挟んで曲が始まる。サビがないまま曲が進み、ギターの循環進行に反してベースが展開していき、最後に曲が終わったと思ったところで半テンポで大サビが来るという本当にどうやって作ったんだという展開に感動する。

 

オルタナと言ってしまえば簡単に伝わりそうでもあるが、オルタナとは別のところの感覚に感応している気もする。

動画で吉村秀樹は"おれは意外なことが好きなんだ"と言って曲を始めるがまさにその通りで、何がどうなるかわからない展開は音楽という手法を取りながら何か別のモノへ変貌するその途中経過を見ているようでもある。スタジオ版のyamaneに入っているバージョンを聴くともう少し室内楽的になっているのだが、このライブverは本当にすごいと思う。

 

音楽という、特にロック音楽という曲の展開が決まった状態のものに対して先が読めないという感覚に落ち入れることにとても幸せを感じる。それは完全なものなどない、ただそこに一人の(バンドでいうと三人の)意識の共有と非共有があるだけだということを思い知らされる。